『石の葬式』パノス・カルネジス ユリシーズの国の哀しき風景

ギリシャ人ってなんか可哀想である。西欧の文化の礎を築いた偉大なるギリシャ人の末裔でありながら2千年以上も他民族に支配されてきた民族だ。といってもまぁ東ローマ帝国公用語ギリシャ語だし、ほとんどギリシャ人の国状態でもあったか。その後はオスマントルコの支配と、そして近代はバルカン半島は火薬庫などといわれるような状況で、なんとなく辛酸を舐めるが如し歴史が続いている。
この小説はそんなギリシャ人作家、パノス・カルネジスが書いた物語だ。

石の葬式

石の葬式

ギリシャのとある寒村の物語。オムニバス形式の短編集であり、寒村の住人達が入れ替わり立ち代り登場する。
原題は「Little Infamies(ささやかな不道徳)」
電気がかろうじて通っているような見捨てられたような過疎の村の住人達の日常をリアリズモな筆致で書き出しているのだが、この住人達が救いがたく愚かで、どうしようもない。産褥で死んだ妻の死を嘆き哀しみその原因となった双子の娘を地下室に閉じ込めてしまう男、全然役に立たない競走馬を相続した激しく貧乏な男、美女に見とれる街道バス運転手、胃痛に苦しむ食堂の巨体の親父、村長の娘を娶ろうとして結局断られて暴挙に出る肉屋、まぁ、隣人にいたらしょうもないとしか言いようのない登場人物達である。
ここでかかれる光景はどれもが埃っぽく、けだるく、時間だけが延々とゆるく流れていくような、そんな感じである。遠藤周作の『海と毒薬』の冒頭の光景を思わせるようなけだるさにも通じる。

しかし、同時にこの埃とけだるさまみれの村の光景は、かつて見た『ユリシーズの瞳』という映画を思い出す。ユーゴスラビアの紛争ただ中で、昔のギリシャの映画の断片を捜し求めバルカン半島を彷徨う映画監督の話であった。

ユリシーズの瞳【字幕版】 [VHS]

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この映画の描き出す光景は美しく目に焼きついている。東西の壁が無くなり、東欧諸国で動乱が起きていたあの時代。レーニンの像は引き倒され、サラエボは瓦礫と化した。大河を下る船に横たわるレーニンの像の光景は象徴的だ。しかしそれはただ点景に過ぎず、映画監督は幻のフィルムを追う旅を続ける。
この映画にはなんの盛り上がりも無く、起承転結そのものがないような、ほおりっぱなしの映画でもあった。それを3時間もやってるんだから忍耐力を要するといえば言えるんだが、私には苦痛ではなかった。(DVDなんぞで見たら耐えられないかもしれないけど)その点ではタルコフスキー的でもあるが・・・。
ただ印象として残ったのが、ギリシャ、あるいはバルカン半島の歴史の長さと、その長さゆえに流れる時間がナニか違うという感覚だった。
その感覚がこの小説にもある。
この短編での登場人物にも、物語の終わりにも救いがない。この点ではアメリカの小説と決定的に違う。アメリカの小説はなんとなく楽観的で救いがあるように思えたりする。そして人物の描き方は同じ歴史の重さを抱えるイタリアの小説とも違う。なんとなく「ああ、ギリシャだなぁ・・」な感じなんだが、それは何故?といわれても、わたくしもよく判らない。
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ところで、この小説にでてくる神父。典型的な田舎のしょうもない神父。イタリアの小説にも出てきそうな神父であるが、教派はギリシャ正教である。なので訳語に微妙に違和感を感じた所があった。日本にも正教会があるので東方教会の事象の訳語は日本の正教会用語に準拠するのが良いなどと思うのだが、例えば「聖母マリア」とあるのはどうなんだ?と思いつつも、正教会的ギョーカイ用語では「生神女」となるんである。正直に本の読者には馴染みがない言葉なので戸惑ってしまうか。
あと「被昇天祭」というのがあったのだが、ギリシャ正教にその概念はあったんだろうか?「生神女就寝祭」ではないのか?被昇天などとやられるととんでもなく意味が変りそうなんだがこの地域ではそういう概念があったのか?などと小一時間考えてしまった。余計な知識がつくのも人生をつまらなくしてしまうかもしれない典型である。

正教会は日本でも伝統が古く地域に根ざした宗派で、馴染みあるところでは既に御茶ノ水の点景ともなった日本ハリストス正教会ニコライ堂などがある。ロシアから入ってきたために冷戦による国交の分断によって教勢が延びづらかったという歴史があるがそれでもしっかりと根ざしてきた。代々正教会って家もある。札幌にいる知り合いもそうだったんだが、あまりに長い典礼が嫌でプロテスタントに改宗してしまった。もったいない気もする・・・。だって北海道の正教会の建物って涎物件多くね?

で、時々思うのだが、日本のような土地では正教会のような霊性を持った教派の方が馴染みやすいんじゃないか。などと思ったりもする。西方のような霊性と違う、もっと神秘主義的な感じとか「聖」という概念とか。まぁ色々。ただ、この小説読む限り、しょーもない神父含有率とか、しょーもなさの光景とかはローマ・カトリックと同じぐらいかも。(世俗に色気があるぶん、ローマの方がよりダメポって気もするが・・・)