ベネディクト16世の評価にみる 続き

で、一晩過ぎて、あちらこちらの評価なども漏れ聞こえてくる。案の定、色々な方のブログや掲示板をのぞきにいくと日本のカトリック信者は「ちょっとがっかりですぅ」という方も多いようです。司祭もいらだちを隠せない方もいるようです。まぁ、仕方ないよなぁ。ノスフェラトゥは私も意外だったもの。師匠はどう思っているのか今度、聞いてみよう。
思えば、コンクラーヴェはすごく久しぶり。前回は私が高校の頃だったと記憶しますが、シスターが若い教皇になったのを喜んでいた記憶がうっすらと蘇ります。ハンサムだったのでいつになくうきうきしていたと思う。その前の方はあまりに任期が短く憶えてすらいないし、その前の教皇に到っては「知らない遠い人」ぐらいの認識だったでしょう。そもそも教皇が誰になろうが関係ない。聖書を教えに来る神父が替わることの方が身近な問題でした。(爺の神父から若い神父に替わった時、我々女学生はからかいの餌食にしていた)だからダイレクトに教皇選を見届けるというのは今回がはじめてで、メディア時代だからこそともいえますが、それだけ教会社会のことも少しは知るようになったということでしょう。大人になるっていやぁねぇ。
さて、早速、新教皇について不満表明があちこち。

新法王は「教理の番人」 カトリックの伝統重視
http://cnn.co.jp/world/CNN200504200002.html
CNN) 聖ペテロから数えて265代目のローマ法王に選ばれたドイツ人ヨゼフ・ラッツィンガー枢機卿は、
法王庁の教理省長官を20年以上つとめた「教理の番人」として知られる。きわめて保守的なカトリックの伝
統を重視する神学者として有名で、改革派からは「ノーの枢機卿」と呼ばれてきた。

「ベネディクト16世」となった新法王は教理省長官として、カトリックの伝統的教義や神学を重視。貧困救
済・人権尊重・階級闘争などを重視する「解放の神学」に批判的で、女性司祭に叙階に強く反対し、同性愛の
「倫理的本質は悪である」と非難。離婚にも否定的だった。このため、カトリックの教義改革を求める改革派
からは、改革を否定する「ノーの枢機卿」と呼ばれてきた。

Nain!の枢機卿ねぇ。しかも「教理の番人」か。これを「教理の番犬」と訳していたものもあったけど、domine canesというドミニコ会を思い出すですね。中世、異端が多数出たカトリック教会の主観的には「不安な時代」にあって異端思想を正し、(カトリック教会的)正道に民衆を導くべく聖ドミニコは立ち上がったわけです。彼らは「主の番犬ーdomine-canes」を自認し、異端との議論に乗り出したわけで、後世、さかんな異端審問へと発展し、悪名高い名を轟かせてしまいました。「薔薇の名前」でも有名な異端審問官ベルナール・ギーはドミニコ会でした。ただ反面、純粋な学術的な人々が集う修道会でもあり、トマス・アクイナスといった高名な神学者を多数排出しています。特に堕落に満ちたルネッサンス期などでは、もう一度教会を質素で敬虔な世界にもどそうという運動家なども多数存在し、有名な画家ベアト・アンジェリコもこの会の厳格派に属していますし、プロテスタントなどでも高く評価される、ルターの先駆者サヴォナローラなどもいます。
現代のドミニコ会は今も学究肌の方が多く、静かに神学に携わる方が多いようです。当然昔のように過激ではありません。寧ろ穏健な方が多い。しかし、中世舞台の映画では悪役になる場合が多く、映画を観た人が怒りまくって修道院に電話をかけて来たりすることがよくあるそうです。「700年以上も前の話で怒られても・・・」と、しょんぼりしていた司祭を思い出しますね。
教理を突き詰めれば原理化しやすいのは当然で、それを純粋な教理世界で語ることと世俗での応用は違います。しかしともすると浅い理解で原理化してしまう人とか、過激になる人も多い為、現場では語る言葉の選択が難しくなるでしょう。ベネディクトゥス16世の以前の立場は、ヨハネ・パウロ体制での教理のスポークスマンであり、もっとも憎まれる場を任されていたわけです。悪役商会に入れそうなノスフェラトウ顔だからではなく、その聡明な神学頭脳が期待されたからですね。教皇という立場になるとまた違いますからどのような言葉をこれから語るのかが期待されます。
◆CNNの文句垂れ
しかし、CNNニュースは非常にがっかりしたらしくとにかく否定的な材料ばかり載せています。ヒトラーユーゲントにいたこととかを敢えて記するとかね。案の定その個所だけがニュースとなりあちこちで「元ナチだと」などと囁かれているようです。イタリアからもそんなのがニュースになってるよ〜。と報告がありました。当時のバイエルンのガキはここに全部突っ込まれたわけだし、あんな糞ど田舎なら何も知らずに「よいこと」と思って参加もしてでしょうねぇ。うちの親父も子供の頃に「海軍に勧誘された」事が自慢です。まぁ「曹洞宗の坊主にならないかと勧誘された」ことと、「京都のヤクザに勧誘された」ことも自慢だけど。時代背景と当時の閉ざされた価値の中で起きた事を、一方的な属性のみで判断するのは危険です。流石、イスラエルは冷静に「現教皇反ユダヤ主義に反対の立場に期待するし、子供時代に強制された話など驚くに値しない」とのこと。

新法王も反ユダヤに反対」イスラエル外相が期待表明
http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20050420i212.htm 

にしても、法王葬儀の時は「ヨハネ・パウロ2は偉大な方だった。」とか何度も語り、葬儀に絡んでブッシュの提灯持ち状態だったCNNのこの豹変ぶり。アメリカとしては自分の息の掛かった枢機卿がならなかった事が不満なようです。この現象から鑑みるにつまり「今度の教皇アメリカをむしろ警戒している」と受け止めることも出来ますね。だとすりゃ余計、歓迎ですが。(根拠はなく、単に今のアメリカが嫌いだから。ごめんアメリカ。昔は好きだったよ)一部に「今度の教皇アメリカより?」などと評価しているものもあるようですが、この拒絶反応ぶりからして私は全然逆なんじゃないの?とは思いますね。ただ「解放の神学」絡みという線もありますから単純には言えませんが。

プロテスタントとの対話は後退するか?
ベネディクトゥス16世の出身地ドイツではプロテスタントの方ががっかりしているようです。
無理もありません。カトリックからも正教会ばかりみてる〜と批判がされるほどです。私にとっても身近な隣人はプロテスタントの方のほうが多いです。正教会は数人・・・。(でも、正教会の方のほうが秘跡を共有するので説明もいらず、話が通じ易いのは事実だ・・・)

かつてラッツィンガーが執筆した「キリスト教入門」でプロテスタントからも高く評価され、ラッツィンガー自身、序文を付け加え、特に彼の著作に対し為された牧師からの助言に、感謝の意とカトリックプロテスタントの一致の印として受け止めたと書いています。ルター派との対話やカトリック教会内での再評価にも力を入れていたようです。

そもそも「ベネデイクトゥス14世」というベネディクトを名乗る教皇で、二つ前の人は、カトリックプロテスタントの争いに心をいため、またカトリック教会が「禁書(読んじゃいけない異端本。昔はあった)」と定めるに当たって一方的なものではなく反論の余地を与えるなど公平な態度を貫くことを定めたり、近代啓蒙主義(科学)と神学の対立を終わらせるべく、対話を試みたり、当時にあっては激しくリベラルな人でした。彼の死をいたんだのはカトリックよりプロテスタントであったということです。15世同様、カトリック教会内で低く評価され、他で高く評価されるという、そういう運命が「ベネディクト」にはあるようです。

Karposさんが毎日読むべき聖書の個所をブログにアップしておられますが、賛否両論が飛び交った昨日の個所はこれ。

http://d.hatena.ne.jp/karpos/20050420
わたしを信じる者は、わたしを信じるのではなくて、わたしを遣わされた方を信じるのである。
わたしを見る者は、わたしを遣わされた方を見るのである。

毎日のミサで朗読される固定の個所です。今週は復活節の第4。20日の朗読個所はヨハネ福音書からでした。これは以前から決まっているもので世界中の人が同じ個所を読みます。ですから昨日ココが来たのは偶然です。ぶー垂れていた神父や信徒も「はっ」としたのではないかと、想像できます。

色々な批判は多いのはわかりますが、批判ばかりしていても結局は埒があきません。積極的に受け止め、そして今の体制を基盤に、どうよりよくしていくべきなのかを考えるほうがいいんではなどと私などは思うのですね。まぁ同性愛の問題、中絶の問題、女性の問題、などどうしても教理が関わらざるを得ない案件もありますが、そもそも第2バチカン自体私が生まれてからの話で、2000年続いた教会の歴史の中で、特に頑迷だと言われてきたカトリック。明治生まれの祖母などは未だそのイメージで「カトリックはすごく厳格だと思っていたのに、今の教会はどうも違う。おかしい」などと首をかしげる始末。祖母すらびっくりするほどの変化がもたらされたわけですから、性急にならず、しかし無視せず向き合いながら、考えて行くべきことではあるでしょう。