ベルリンの思い出ーデビッド・ボウイの訃報 

1989年の夏、私はベルリンにいた。シベリア鉄道でたどり着いたドイツの古い街は壁で分断されていた。ベルリンは奇妙な街で西側の都市である西ベルリンは資本主義経済を享受する自由な街で、共産主義国家の東ドイツの領土の中に離れ小島のように存在していた。
 壁で囲まれた閉ざされた園、西ベルリンは70年代から80年代にかけて世界中からとんがったアーティストが集まってくる場所でもあり、クラブ文化が成熟し、優れたコンテンポラリーアートや前衛的なロックが多く生まれたところでもあった。夏には野外コンサートが開かれ、鮮やかなネオンサインが夜を彩る。

 その街を隔てる壁の東側は闇に沈んでいた。ソ連からたどり着いた私は西側に移動する前夜に東ベルリンに一泊した。夕闇に涼もうと散歩に出た街は暗く、開いている店も少ない。ポツリポツリとともる街灯のもと、どこに行っていいか判らぬまま壁にたどり着いた。鉄条網と監視塔の向こうに延々と続く白い壁の向こうからは西側の騒音が聞こえ、コンサートの音が流れ込んでくる。そのネオンに照らされて浮かび上がるのはぽつんぽつんと立つ東ドイツの恋人達の姿であった。まるで憧れるかのように彼らは静かに西ベルリンを見つめ続けていた。

 その年の秋、ベルリンの壁は崩壊した。

 デヴィット・ボウイが亡くなった。

 Twitterを眺めていたらそういう呟きが入って来た。え?と思っているうちにボウイの公式サイトにその報が出ているという情報がまず流れて来た。

January 10 2016

David Bowie died peacefully today surrounded by his family after a courageous 18 month battle with cancer. While many of you will share in this loss, we ask that you respect the family’s privacy during their time of grief.

真っ暗な頁にこの文字列があった。

 その後、BBCTwitterが情報を流しはじめた。新譜を出したばかりだというのに。頭が真っ白になった。TwitterのTLにはボウイ情報と彼の死を悼む声が雪崩のように流れ、思いもよらないあの人が、あの人が、悲しみの声をあげ、ボウイとの出会いを語りはじめた。それぞれの出会いの次期は異なろうとも、年が異なる多くの人がどこかでボウイと出会っていた。

 白状すると、私はデビッド・ボウイのいいファンとは言えなかった。

 デヴィッド・ボウイをはじめて知ったのは彼がベルリンの三部作を出していた頃だった。それに先立つStation to Stationを作成していた頃ドラッグに打ちのめされ、Low、"Heroes"、Lodger という作品を造り立ち直って行った頃だ。その後アメリカのメジャーシーンに打って出てダンサブルになった80年代を経て、Tin Machineまでは追い続けていたが、彼がNever Let Me Downを出した頃にはなんとなく彼の映画出演とか、ダンサブルな方向性に違和感を感じ、私自身は90年代にはネオアコやら後ろ向きなモリッシーなんかを聞きはじめていて、ボウイのアルバムはTin Machineを最後に聞かなくなってしまった。だから20年ぐらいは空白がある。限定的なファンだ。

 音楽というのは、出会いのときがある。中には本当に一曲しか出会わず去る一期一会の作品もある。しかしボウイとの付き合いは長かった。Youtubeで彼の過去作品を聞き続けて、まだ若い成長の時、無意識に彼から影響を受けていたものの多さにいささか愕然とした。たぶんそういう人は案外多いのではないか。

 ベルリンに行った時、シベリア鉄道に乗って行った。オーウェルを持って行った。デヴィッド・ボウイが読んでいた本だ。西ベルリンにたどり着いた時、彼が感じ、みたものの片鱗が少しだけ判った気がした。