アカデミズム・昨日の続き

んでだ、技術であった「アルテ」が精神性というか思想として自立するのはやはりルネッサンス人に負うところが大きいですね。プラトンアカデミーの画家や彫刻家達の積極的な位置づけと、数学や光学の実験場としての絵画、彫刻と、工人だった職人がそれらを通じて証明していくさまざまなことっていう流れから、ファインアートというジャンルが自立していくわけです。言語を用いない思想家としての芸術家ということですね。
ここからまぁコムズ世界がはじまったと言えるんですが、「視覚」効果の実験、「美」がまだ固定化されている時代から更に「美」そのものの価値を問うような状況になってくると共通言語としての自明の「美」すらも解体されていくわけで。
現代の芸術はこの世に存在する様々なものを視覚という言語手段を用いて論じている。それは文字世界での社会学とか、現象論とか、記号論とか、そういうものの、文字を用いない視覚世界での論評でもあったりするわけで、まぁそりゃ説明聞かないとわからないような、つまり前提をある程度共有しないと判らないような代物があるのも当然なわけです。ファインアート世界というのはそっち方向にいった。そして現代美術ってのは書店でいえば人文書コーナーに置いてある本みたいなものか。記号論が前提となる知識をある程度は必要とするみたいな、そういう性質みたいな作品もあるし、まぁそのままストレートに判りやすい論もあったりするし。
日本画院展系みたいな絵画はなんだろう?文芸小説か?歴史小説とか。たぶんにエンタティメント性もある。つまり「多くの人が判る」「多くの人が愉しめる」理解されやすい「美」がモチーフにあったりする。優れた日本画は、古典文学にも通じるとかね。
アニメみたいなアートはもう明らかに漫画コーナーですな。・・・・というかそのままだ。
しかし、現代美術がほんとにわかり辛いかというと、文脈さえあれば直感的に理解出来たりするし、「とにかく馬鹿をやるんだ」みたいなのもあるんで、実は判りやすいのもあったりする。つまり馬鹿を馬鹿として愉しめるかと。たびたび名をあげるジェフ・クーンツなんか馬鹿大王。映画でいえばタランティーノみたいな存在かね。
文脈というと、たとえばヨーゼフ・ボイスの作品はなんとなく難解で、ギャラリーワタリなんかでやっている展覧会に出掛けたりして「んじゃこりゃ?わからん。ボイスってイケズ」などと私などは思っていたんですが、ベルリンのピナコテカで見た時にやっと理解したというか、嗚呼、この人ドイツ人なんだなぁ。背負っているものがあるんだなぁ。と東西に分断され壁に囲まれた、あのエキセントリックな空気に満ちた街という文脈の中で始めて直感的になんとなく理解出来たという感じですね。完全に理解したわけではないけど、交感出来たというか。やはり理解するための場というのも実は重要だったりしますね。

理解出来ないものは理解しなくていいんですね。ただ何故?という疑念を持っていれば、いつか理解出来るかもしれないし、永遠に理解出来ないかもしれない。それでもいいんだろうと。
そもそもすべてを理解しなくてはならないという強迫観念から解脱した方がいい。興味深いことは自ずと理解したいと努める。理解したかったらその苦痛すら快感だったりする。
わたくしは、アニメオタの友人がいたりしてガンダムとかアニメ作品のオリジナルは実はいまだ見たことが無いんですが、彼らがそれを楽しむ様ってのは横で観察していて、ガンダムギャグだけはなんとなく知っておりました。後年、安彦良和氏の漫画が出てはじめて「へぇ、ガンダムってこういう話だったのかぁ。彼らの内輪ネタってこういう文脈で語られていたんだ」と理解した次第。コムズな美術作品だってそんなアプローチでもいいんじゃあるまいか?

で、知識がないから愉しめない。それに対して疎外感を感じるとか、えてして美術世界とか、思想の世界でもそうですが、なぜか理解出来ないものの存在否定をする人がいる。例えば上記の場面でわたくしはガンダムネタの知識がないから、ガンダムネタをディープに語られても全然判んないわけですが、「ワケワカメな知識を振りかざしてどっか偉そうだよ。こいつら」などと思う事もないし、そもそもが興味ないからコンプレックスを抱くということもないわけです。でもどこかで引っ掛かりはあったわけでそれで安彦さんの漫画なんか買いましたが。「コンプレックスを抱く」というのは実は激しい興味の裏返しだったりするのかもしれない。興味無かったら疎外感など感じないで、寧ろ放置するでしょうし。

で、この方のお怒りとか、虚脱感とかなんとなく判ります。↓
○参悲虎Tres tristes tigres
http://d.hatena.ne.jp/kasuho/20060502/p1
■[arte]理解出来ぬ作り、理屈抜きで怒り(回文)

「判らないから理解しやすいものにしろファシズム」ってのもあるよね。それは「判らないことは語るな」ということに繋がる。
また「理解する」というのは、実は「理解したつもりである」ということでもあったり。本当の意味で理解など出来ないし、逆に受け止めた側の「理解」とはその受け止めた人のオリジナルな解釈で、既にそこでは自立した別の何かが創造されていたりする。コミュニケーションに於ける創造性というものがあるなどと思う。