教会の美

ユリアヌス先生んトコに文句を書いたが、教会美術は酷い。酷すぎる。かつてはアカデミーの肩代わりをしていた教会は視覚伝達の重要性をそれなりには知っていたわけだが、いまや死滅しつつある。
司祭のコスプレのアレなんか簡素化していて、ストラしか纏わないで出て来る始末であるよ。たとえば派手派手な衣装は清貧でない。とか質素がいいのだなどという人もいる。ちゃんちゃらおかしい。なんせ昔からあったそういう衣装をそう言いながら「捨てて」るもんよ。まだ使えるのに。どこが清貧、質素なんだか。某S教会で子供の聖劇用にそういう衣装が降ろされていた。まだ使用可能なそれは典礼では不要なものとして典礼から除外されたようだ。見た感じ「もったいない」と思える手の込んだつくりであった。酷いことをするなぁとその場で言ったんだが誰も同意してくれなかった。
親が洋裁をやるのでそういう布、あるいは衣料に囲まれてきた私としては、そうしたものを作った人に対する冒涜行為に映ったんだけど、最近は消費社会で自分に合わないものは平気で使えるものでも捨ててしまう。おばぁちゃんに怒られる人もいないんだろうなぁ。。。ましてやそれが美しいものだったら悲しくなるってもんだ。
ユリアヌス先生は音楽がないがしろにされているというが、美術こそ災難だよ。美術とは教会絵画に限らない、教会におけるあらゆる視覚的造形物すべてである。少なくともカトリックぎょーかいの出版社や典礼用品屋がそれに対して敬意を払っているかというと、寧ろまったくといっていいほど省みられていない。ファンシーな本とか、素人の描いた絵とか、今どきそんなデザインかい?という本とか、趣味わる。。なご絵とか、ダサいロザリオとか・・・勘弁してくれ。カトリックぎょーかいには画家やデザイナーも結構いるだろうに。女子パウロ会が書籍デザイン等ではかろうじて頑張ってはいるが、正直、趣味が悪いものも多いな。オカンアートレベル。もっともファンシーのジャンルだけは私が趣味じゃないだけだから。それもまぁ必要なジャンルはあるだろうし。けど、神父が率先してやっていてなんかなぁ。神父の素人臭い絵なんかより、長新太望月通陽に頼めばいいのにって思ったり。そういや長新太さん、去年亡くなられたんだよな。
過去の遺産だけは立派なんで大切にしたり研究する人もいるだろうけど、現代という時代では教会芸術はかなり酷い。西洋はコンテンポラリーなものに目を向けたりしているけど。日本はダメだな。(ただ西洋人の宣教師はかなり意識的なんで、彼らがかろうじて理解してくれるのが救い)
因みに文中のオカンアートとはこれ↓
http://www.geocities.jp/loveokan/okanart/museum/
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まぁ、美術ってのは金がかかる。今更、教会にそれ求めても仕方がない。あらたになにかを造れとか、彫刻や絵画作品を造らせろったって大変である。ユリアヌス先生のところで「画壇やら派閥がどうたらいう問題すら起きない」って書いたけど、総体で見るなら美術の関わり方がどうしても限定される(仕事が派生しない)から、結局仕方がない。
それ以前に、なによりも視覚的な要素そのものが無視されている現状は例えば上記に記した典礼の場における簡素化ってトコからはじまっている。聖公会のハイチャーチや正教会なんかではいまだにビジュアル的にも荘厳に祭儀が行われたりする。視覚的効果の持つ意味というものがないがしろにされていない。転じてカトリック聖公会の人に「カトリックはローチャーチだね」と言われているほど簡素化したわけで。こちらはモノがないから簡素なわけではなく、上記に記したように意図的に排除されて来た。母教会でも脇祭壇を壊してしまったと聞いてがっかりである。
美術家なんか活躍出来なくてもいいから(というかミサ典礼ではそもそも関係ない)、視覚的な効果ってのはもっと大切にして欲しいものです。誰かが起用されないとかそんな個々のレベルの問題じゃないです。典礼から視覚的美の存在そのものが無くなりつつあるわけで。