★(ブラックスター)

★(ブラックスター)

20年の空白を懺悔しながらこのアルバムを聴いた。これと前作のThe Next Day。
10年ほどの休止から復活して作られた二つのアルバム。ジャケットデザインはすこぶるミニマムでスタイリッシュで無駄がない。音楽も同様だ。洗練され、新たな領域へ行こうとしている。いつの間に、ここまで到達していたのかと驚かされた。いや、邪険にしていた私が悪かった。

★とLazarus はどちらも大変に暗い。PVもかなり暗すぎて観るのが困難であり、はじめは途中で観るのをやめてしまった。頑張って寝る前に通して観たせいでその夜、夢にボウイが出て来てしまうほどに打ちのめされた。


 どちらも、「死」の色が濃い。そしてラストの曲はー前二つと異なり明る目の曲調ではあるがーI Can't Give Everything Awayという。だから多くの人が「こ、これは?彼の遺言じゃないか!」と更に涙にむせぶという仕掛けになっており[これはひどい]タグを付けたくなるぐらいである。

 たしかに死に彩られたアルバムではあるし、彼自身、自らの病をどのように認識していたかは定かではないが、「死」を常に意識していただろう。しかしもっともそもそもが昔っから、彼は崩壊するものとか、破滅に向かうもの、滅びて行くものというのをテーマにして来た(名曲Five Yearsなんて世界の終わりの5年という設定)ので、彼の死がなければ、今ある世界に満ちている「死」というものへのなにかではないかと解釈する人もいたかもしれない。

 デヴィッド・ボウイという人はミュージシャンである前にコンテンポラリーアーティストであった。現代美術作家。彼はペンや、絵筆や、あるいはインスタレーション、映像の代わりに音楽を通じて現代美術作品を造り続けた人だと思う。彼は優れた写真家にもなれたであろうし、映像作家にもなれただろう。もともとが演劇とも関わりが深く、コンテンポラリーダンス的な要素も持ち合わせたコンサートパフォーマンスを見せてくれる人でもあった。★のPVでもピナ・バウシュのような演出が見て取れる。そこにある素材を、表現したいものに利用する、インスタレーション的な方法で、音楽を作っていったといえる。今回はアシッドジャズの手法が随所に活かされている。その用い方は自在でありながら、デビッド・ボウイその人に他ならない。すごいアーティストだなと改めて思った。

 デヴィッド・ボウイという人は孤独を愛しながらも、人を観ることを好んだ人であった。社会との距離に対し非常にバランス感覚のいい、クレバーな人であったと思う。だから自身が編み出した様式ーキャラクターを必要とあれば殺し、崩すことも厭わない。流行に鋭敏であれど、流されることはない。パンクムーブメントについて彼は、パンクの本質をたたえながらも、それが流行になっていることには苦言を申していた。壊れるものをみつめながらも、決してそこに囚われることはなかった。ジギーを葬り、客観的にそれを観察し、再び作品化する。壊したものを新たにビルドしていく。そうやって常に未来に向かって歩んで来た。今回のアルバムにもそういう彼のあり方は踏襲されていると思った。

 ベルリンでドラッグによる死から再生した彼が、Station to Stationの衣装を身に着けた男をラザロ(聖書にある、復活した男)とかぶらせて表現していることは非常に示唆的ではある。

 ただまぁ、どういう解釈をしてもボウイ自身が「解釈なんてのは、聞く人が考えるものなんで、僕が説明するこっちゃない」などとたいへんに身もふたもなく突き放したことをいう人だったので、各人がそれぞれのボウイ体験から、ナニかを感じとっていけばいいのだと思う。


ところで文中でFive Yearsを紹介致しましたが、↓

この曲っぽい本があります。

地上最後の刑事 (ハヤカワ・ポケット・ミステリ)

地上最後の刑事 (ハヤカワ・ポケット・ミステリ)

小惑星衝突で世界が終わるまであと3ヶ月という世界の刑事モノという設定。ボウイが歌う歌詞のごとき世界におかれた人々が哀しくもいとおしいような小説です。全部で三部作。よかったらどうぞ。