信仰で苦しんでる増田さんがいたからちょっとお返事してみる(追記有り)

最近忙しいんで真面目な事を書きたくないうえにそもそもブログも落ちがち。ここ1ヶ月はニュース読む以外、はてな界隈しか見てない。ちっとぶくまして、アンテナに入れたりブクマしているサイトを読む程度。日によっては気象庁のサイト覗いてメールのチェックして終ったり。色々書きたいネタもあるんだが、文章書くと絵描き魂が死滅するんで。不器用なんです。

で、まぁ本日はたまたま信仰問題で苦しんでいる人の叫びめいた増田(はてなに於ける匿名日記)エントリを読んだんで、筆をとってみました。

■物心つかないうちから親にキリスト教信じさせられて苦しい人、いませんか。
http://anond.hatelabo.jp/20090910014230
(前略)
やめました。やめたつもりです。でもべっとりとこびりついてくるのです。

小さい頃、みんながワイワイしていた中、1人「僕はあんなことしちゃいけない」と思いながら、「でも、クリスチャンじゃなかったら、やるかもな・・・・・」なんておもってた。

いじめられてもやり返しちゃいけない。ゆるさないといけない。バカだと言われ続けていればいい。やり返せるようなタマじゃなかったけど、でもそれってやっぱ生まれつきといっていいほど、キリスト教に閉じ込められたからなのかなあ。

大人になったら「堂々としろ」。

子供にキリスト教信じさせてる親の方。

子供が本当にどうおもってるか、言うと思いますか。

あるいは、「神様信じてるよ」って言う言葉だけを真実として拾ってませんか。

嗚呼。

昔、たまたま会えた二世の社会人の人、結構キリスト教をさめた目で見てたなあ。「まあ生まれたときからこうだからやってるだけなんだけどね」っていってた。

神よ、あなたを消すにはどうしたらいいのですか。
(後略)

うーむ。これは、人生厳しそうだ。
二世の人の態度が正しいっつーか、適度な距離感って重要なんだけど、この増田さんの場合母親の教育に問題があったようで、上記引用のあとに母親のいささか常軌を逸したような言動が記されていて痛ましい。


そういえば『キャリー』って映画があったなぁ。
スティーブン・キング原作の『キャリー』は厳格なクリスチャンの母親に育てられた超能力を持つ少女の悲劇という話でもあるんだが、ガキのあからさまな弱肉強食世界で、尚且つ厳格過ぎる性教育が彼女を悲劇的な状態に陥れていた。いじめられっ子だった彼女が最後のダンスパーティで暴発する彼女の破壊的な超能力が一種のカタルシスすら引き起こすというホラー映画。


この増田さんへの回答は多くのぶくまコメンターが書いているように「キリスト教」の問題や「神」ではなく、まずもって母親の教育のあり方を問え。ということではあるが・・・

http://b.hatena.ne.jp/entry/anond.hatelabo.jp/20090910014230

ブコメでは、それは「キリスト教ではない」とか「カルトな教団じゃね?」と伝統キリスト教の教えからずれている教派ではないかと言う指摘も多い。しかし、どんな教派であれキリスト教というのは一つ扱いを間違えばこのような発想を産み出す危険性はある。『キャリー』の母ちゃんはローマ・カトリックという設定だった。ルター派の牧師の息子で、良き牧師の息子となることを己に架した性で、自分自身を抑圧し続けていたとしか思えないニーチェは、結局、哲学方向に爆発し「キリスト教」を否定した。

このような間違った解釈をしていたり、子どもの虐待すら行うような人ってのは、別にカルトなキリスト教の教派だけではなく、伝統的な教派にだってタマにいる。


キリスト教の信仰というものは、神に信を置くという事以外、実のところ重要じゃない

・・・・・・・・・・・・・という暴言をまず吐いておく。

キリスト教で一番大切なのは神との対話をし続けることであって、その仕方というのはイエスがやり方を教えてくれた。例えばイエスゲッセマネの園で「おいら、明日、十字架かけられなきゃいけないんすか?親父、そりゃないっす」などと神に泣き事をいい「あああ、でも、避けられないんですよね。おっしゃるようにします。しくしくしく・・・」などというような、神なんかいないと思ってる人にはただの自問自答みたいなもんでもいいわけですよ。

そこでは他者は介在しない。母親もいない。神と己しかいない。

それ以外の「教え」というのは、まぁ社会で、よく生きていくガイドラインみたいなもんだ。
喧嘩ばっかりして、攻撃的すぎる人には「やりかえしちゃいけない」ぐらいは言う。エンドレスで馬鹿みたいに喧嘩し続けていたら「タマには右の頬を差し出せば?」とか、いいかげん喧嘩の終らせかたをなんとかしろみたいに言うと思うが、いじめられ続けて自尊心が傷つきすぎている状態の子どもがいたら、喧嘩のやり方を教えちゃうと思う。重篤な憎しみに到らない為の解決方法はなにも反撃しないことだけではないだろうというか、目には目をという言葉すら聖書にはあるし。(目に対し、目と歯を返しちゃいけないと思うけど)

キリスト教のそのような倫理的な教えと言うのは、その教えが成立していった文脈や背景がある。或いは聖書で何故そのように語られているかの前後の話がある。だから、律法的に教えを守るのではなく、まず以て「教え」そのものにいったん懐疑していく必要はあると思う。鵜呑にせず、まず疑え。「何故?」と思う事で、それについて考える。それが大切であって、鵜呑にしてただ守ることだけが大切ではないと思っていますよ。

中にはむかつく教えとか、なんじゃそりゃ?という教義すらある。私はローマ・カトリックだが、ローマ・カトリックにも教義が色々あって、わたくし的につい批判的になりたくなる時もある。時々、神父が説教していると「けっ!」とか斜め方向になったりしますね。

子どもの頃、キリスト教の教えを叩き込まれたのは同じだが、我が家の場合洗礼は受けさせられなかった。親は様々な宗教を知る必要があると、お寺さんにもつれて行ってくれた。禅宗と浄土新宗の坊さんの話なんぞも聞いて育った。何故か「成長の家」にまでつれていかれた事もある。健全な宗教教育が必要だと考え、広い知識を知るのが大切と考えていたからだと思う。そしてそれに対する判断というのは私達に任されていた。だから洗礼自体は大人になってから受けた。

キリスト教が一番身近な宗教ではあったが、青年期は反抗期になって「イエスってうさんくせー事ばかり言いやがって」とか、シスターや神父の信仰のあり方がむかつくとか、パウロは教会で女は黙ってろとか言うむかつくヤツだとか、腹を立てていたので完全に離れた。

その後、なんとなく友人の死と向きあった時に、舞い戻ったんだけどね。死生観が糞のつくカトリックだなぁ、とか、結局、神とはずっと話続けていたなとか、なんか無意識に右斜め後ろにイエスがいたりするなとか、色々自覚してしまったので、その辺りを単にカムアウトしただけではある。未だに教会の偉いさんが言うことやパウロがタマにむかつく時があるのは変わらない。イエスが偉そうに利口ぶってるとゲソー('A`)などと思っちゃったりするんで『聖☆おにいさん』のイエスの方が好きかな?とか。とにかく、不良信者である。

ただ、わたくし的イメージのキリスト教は、カトリック日本キリスト教団しかなかったんだけど、どちらも緩い印象はあるんで、キリスト教それ自体が増田さんの如きイメージのものとは異っていた。

いずれにしても、人が宗教に対しどのように接し、どのような関係性を結ぶかは、その人のもので私がなにか言う資格はない。

例えば、ニーチェは神と決別した。それは彼自身のなんらかの誠実さの結果ではあると思う。そいや彼はアンチクリストでも神的なるもの、そのものを否定はしていない。兄貴が神父をやっていたようなバタイユは若かりし頃は熱心なカトリックになったんだが、ニーチェに影響受けてあの通りである。因みに兄貴も神父を辞めちゃったらしくそれをネタに小説書いてた。彼もまた彼なりの誠実さでそこに辿り着いた。
そういえばジェイムス・ジョイスイエズス会の学校で神父候補と遇されていただが、無神論になったな。

増田さんがどういう道を歩むか判らないが、まずはブクマカさん達が言うように母親という存在から独立し、また増田さんがどの教派の教会の教えを受けていたかは判らないが、教会の教えと向きあって、なおまだ懐疑するなら、増田さんと同じようにキリスト教がやになっちゃった前述の偉大なる先人だっていたわけで、そういう道だってある。
けれど、なんつーか、一クリスチャンとしては、神との対話はやめないでおくといいよとは、言いたいかな?とは思う。
神に対して絶望だけはしないほうがいいというか、まぁ神をなくしちゃっても、絶望しないで生きたほうがいいと、「希望を以て生きよ」とイエスも言ってたよなと。増田さんは色々大変そうだけど、今を乗り越えて欲しいですね。

母ちゃんや「キリスト教」と距離をおくのもいい。時間が経って冷静になってもう一度見つめ直せばまた発見があるかもしれない。母ちゃんのことだって判ることがあるかも。母ちゃん自身が抱えているなにかがあってそれが判るかもしれない。誰だって完全じゃない。

それでも生きていて辛かったら愚痴聞いてくれるんだよ。神は。
ゲッセマネのイエスの時みたいに愚痴聞くだけで何もしてくれなくてむかつくんだけどな。

◆◆◆追記

昨日書いたエントリに追記をしておく。

増田さんの苦しみは神を消せないことだ。
べっとりとこびりついてしまっている神。それを消したいのに消せない。

だが、ちょっとまってほしい・・・というのは朝日新聞の社説だが、まぁ、少し立ち止まって考えてみよう。
増田さんの断片的な情報からは置かれた状況がよく分らないので、一般論として少し語っておく。

キリスト教の神というのは人格神である。大変に厄介だ。ヘレニズム文化でも、或いは日本の神々でも「神」は人格を持っているが、そういう多神教では、あきらかにそれぞれのキャラがはっきりしていて、個性的。性格悪いのとか、萌え的な気持ちになりそうなのとか、エロいとか、攻撃的とか、嫉妬深いとか、様々なんだが、ユダヤ教が産んだヘブライの神はたった一人で、「私はある」等とわけの判らないことをいうような変な神である。ゼウスみたいにやたらレイプしまくるトンでもでもないし、親殺しをしてるわけでもなく、ポセイドンと喧嘩したり、或いは、暴力的な弟にむかついて岩戸に篭ったりといったような人間臭さがない。そのくせ「父」などという人間的な要素が付帯されている。説明不足な抽象的な存在な癖に「人間」というペルソナが付与されているのだ。


だから、クリスチャンというのは、神という人格神の象を捉える時に、身近なナニかを投影して見る。それは大概が身近な大人だったりする。

神という像に対し無意識に両親と自分の関係性を見てしまうとか、或いは教会の神父とか、子供心に尊敬していたおじさんとか、おじいちゃんとか、場合によっては女性で尊敬したり慕っていた存在の投影もあるだろう。ただし、子どもの「慕ってる」というのはケースによっては、閉鎖的な共依存、支配するものとされるものという一方的な抑圧関係も存在する。厳格な父権性が強い社会での神観は大変に厳格な抑圧された神の像を結びがちでもある。母親がやたら支配的な場合でも、同じように神は厳しく抑圧する像として結ばれる場合がある。

「神」を偶像化するな。と聖書は言う。
偶像化するというのは、なにも「彫像を造るのがいけない」とかそんなレベルの話ではない。神という超越する存在であり「真」であり「善」であり「美」である存在を、己の限界性に基づく価値で卑小なものとしてしまうことだ。増田さんは親との関係性を神に無意識に投影しているんじゃないかと。まとわりつく母親=神というそのようなペルソナを神に付与してしまっているのではないか?と考える。だから「親」からの自立が必要ではあるとは思ったが。親という像から自立した時に見る「神」というのは別の相貌を持つかもしれない。

ところで、イエスも親からの自立に悩んでいたかもしれないエピソードがある。
ある時、なんだか過激な言動をして伝統的なユダヤの教えでないようなことを口走る息子イエスの行動に心配したとおぼしき母マリアは兄弟達と、イエスが集会をしている所にやって来た。まぁ「そんな馬鹿な真似はやめなさい」と母ちゃんは怒りたかったのかもしれない。で、イエスはその時、母の心配を退け「わたしの母とは誰か?私の兄弟とは誰か?」などと激しく冷たいことを言ってはねのけていた。母親に向かってなんちゅう口をきくんだ!イエス、反抗期の巻である。
エスもまた、そのような冷たく親を切り離した時もあったのだな。
他にも「私は平和をもたらしに来たわけじゃない、家族の間に剣を投げ込みに来たのだじょ」などとすこぶる反平和的な事を言っていたりする。又吉イエスの如くトンでもない表現をペロリという若造である。まぁ、又吉さんでなくこっちがオリジナルなんだが。

人はどこかで自立せざるを得ない時がある。

親でも神でも、一度離れて、荒野に彷徨う必要はあるかもしれない。
庇護を失えば不安でもあり、道は自分で見付けねばならず、それこそ「悪魔」にも誘惑される。

しかし、自立した時はじめて、親に正面から向きあえる時が来る。それは感謝の念であったり、「親」もまた自分と同じ悩める一人の人間でもあることに気付いたりすることがあるかもしれない。

あるいは神という庇護者が、こいつは前述の通りなーんにもしてくれなくてやなヤツなんだけど、それでも見守っていてくれることへの平安に気がついたり、なんにもしてくれない放置プレイというのは実は「わたし」を信じていてくれたからなんだなということに気がついたりとか、そういうことがあるかもしれない。

まぁ、距離を置くと見えることってあるよねと。

エスも反抗したり荒野に行ったりしているんで、似たようなもんだ。模範的クリスチャンなんぞになる必要はない。だめだめなのが前提なのが人間の本性なんだと思いますよ。そういう駄目すぎる人間を一方的に愛して見捨てないという神は、はっきりいってストーカー臭も漂う変な存在なんだが、わたくしは個人的にどっかで助かってます。

リア充でもなく、彼氏もいないくて、寂しい時とかな。「まぁいい」やって思えたりするんだな。「まぁいいや」って思って焦らないんでますます出来ないんで困りもんだけどな。

◆◆
あと、二世の人は、一度「キリスト教」から自立してみるのもいいと思うよ。
マジ自立してどっか行っちゃっても、おら、しらねーけどよ。まぁ見つめ直すって重要なんだよな。