寓意・森羅万象に意味を見いだすこと

寓意の続き。
ま・ここっとさんが以前教えてくれたのだが、アフリカの宣教の為に働くシスター曰く、文字の読めない人々にキリスト教の教えを伝えるとき、言葉で伝えても曲解されたり、間違って伝わったりするのだが、絵を用いると伝えやすい。間違いが無くなりやすい。ということであった。間違いがまったく無くなるとは思えないが伝えやすいことは確かであろう。
ネット上の議論が紛糾するとき、言葉が共有されていない。或いは概念が共有されていないという場面で生じることが多い。同じ言葉の定義をまったく違うものとして理解されたまま、その齟齬によってズレが生じる。言葉は有るものを意味するが限定される。体験によってその言葉から引き出されるものが違ってくる。例えば「青」という色をあるものは空の色と理解し、あるものは海の色と理解し、あるものは信号機の色と理解し、あるものはクレヨンの色を思い起こす。だもんで「青い色のカーテンが欲しいの。」などと言ってもヘンテコな青い色のカーテンを買ってこられて「センス悪!」などと夫婦喧嘩が生じるなどという光景も起きるわけである。そういう時は青い色そのものを見せた方が早い。まぁこれは視覚に関することだから当然ではあるが、「手紙」と書いて日本人はletterを想像するが、中国人はトイレ紙を想像する。これは国による用法の違い。これも具体的な物体を指すので絵を見せた方が早い。「泣く」という言葉にあるものはさめざめと泣く光景を思い起こすがあるものはぎゃんぎゃん泣き喚く光景を思い起こすかもしれない。「抽象的な」という言葉からあるものはモンドリアンを連想するが、あるものは文学の一説を思い起こすかもしれない。言葉はその一つ自体では意味に広がりがありすぎ、更に様々な修辞やら説明を加えていかないとツボに到達しない。しかも変な方向の想像すら引き起こす可能性がある。視覚的なものはかなりそういう点では即物的ではある。本来はそのものでありそれで完結するからであるが。しかし中世の人々は更にそこに意味を見いだそうとあれこれ想像を巡らせる。
ボナヴェントゥラは神の被造物である森羅万象に「三位一体が範形的に存在する」などとわけの判らないことをいっているが、師父フランシスコはキリスト教オタクであり、この世の様々なものを聖書の世界と結びつけ、例えば「岩はペテロなのだ。」「石はペテロなのだ」と石を踏んづけるのを嫌がったとか、なんかそんなエピソードを読んだ記憶がある。こうなるとただの行き過ぎの馬鹿とも言える。
ところでこの手のヘンテコな思考はキリスト教の特権とは限らない、ピュタゴラス学派という人々がいて、彼らも似たように森羅万象にあれこれ意味を見いだしていたらしい。特に数字において長けていたがそれ以外にも怪しげな戒律が存在していたらしい。これについては愛・蔵太さんが面白い紹介を書かれている。

[知的刺激]ピタゴラスはなぜ豆畑で死んだのか 
http://d.hatena.ne.jp/lovelovedog/20060111#p1

そうかぁ、ピュタゴラスは豆がタブーだったのかぁ・・・・。
中世、イベリア半島をアラブが支配してくれたお陰で、トレドを中心に知的ムードが高まっていたようだが、このトレドではイスラムユダヤキリスト教の学者達がいて、切磋琢磨していただろうことが想像出来る。ピュタゴラス学派の思想なども知ることが出来たかもしれない。ユークリッド幾何学はここからガリアの地に伝えられ、ゴシックを産むわけであるし。また百科全書的なものをイシドルスが書いていたりするのも、うしなわれた賢人の知恵を学ぶ機会があったからかもしれない。馬鹿みたいになんでも集めたがるプリニウスとかも読めたかも。
とにかく、キリスト教@中世の人々は太陽を見ると「イエス・キリストだ!」とか月を見ると「母マリアだ!」とか、魚を見てはイエスだとか、バラやら百合を見れば処女でありマリアであり、純潔の徳であり、蛇を見れば悪魔であり、知恵であり、数字の3は三位一体で縁起がよく、数字の4は世界を表すし、7は完全数で縁起がよく、8は復活を意味する素晴らしい数字である。とか、青は哀しみであり赤は情熱、などととにかくこの世の色々なものに意味を附加させてゆく。
正直、世界のあらゆるものにキリスト教的意味を見いだし続けるのはただの強迫観念症じゃないのか?付合いきれないし疲れる気もするが、彼らの価値ってのは今みたいに色々な情報や価値観に囲まれているわけでなし、それによって寧ろ色々なことを楽しんでいるとしか思えない。
(また続く)