聖木曜日

世の中の西方キリスト教な国々は今ごろイースター休暇である。キリスト教の一つ、カトリックもこの復活祭の祭は盛大に祝ったりする。なんせその前に肉断ちしてるからな。嬉しい限りでしょうよ。で、その復活祭、西方教会のは今年は16日なんですが、まぁこないだうちに遊びに来たえげれす人のT氏なんか16日にえげれすに帰るよん。なんていってるように、全員が全員真面目に教会で過ごすわけでもないようだし、ヨーロッパでは葬式宗教化していたりするとは言うものの、祭はあちこちで催されているようです。
我島では、昨日、「イザイホー」という神社の奉納祭が行われまして、知合いが文化保存なんぞに力を入れていて、お誘いいただいたんだけど、仕事の都合で行けなかった。神社でお神楽やるんですよ。こちらは要するに春の十五夜祭。旧暦でその日が決定される。月を指針にする祭というのは洋の東西を問わずあるもんだ。
復活祭の設定は変動的で、やはり春分を基準に月の動きにあわせて決定されるのである。そういうわけで毎年日が変るので復活祭休暇も移動するという按配。T氏の国の休暇は3週間だそうです。
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聖木曜日は、イエスの最後の晩餐の日である。
エスはここで弟子達と共に過ぎ越しの祭を祝う。過ぎ越しの祭はユダヤの伝統的な祭であり、ユダヤ人であるイエスも忠実にこのユダヤの祭を祝う。それは遙かモーゼの記憶にまで遡る。出エジプト記。ファラオとモーゼとの対決のあの光景。最期の災いとして神はエジプトの赤子を「人、家畜問わず撃つ。」とする。イスラエルの民は小羊を屠りその血を家の鴨居に塗れと命ぜられ、その血が徴となり、その家に災いはおよばない。そしてこの日は聖なる記念の日となる。。とまぁこういう話で、これ聞いた時「神様って酷過ぎやしないか?」と思ったモノである。映画のユルブリンナーのファラオに同情したのはいうまでもない。まぁそういう話ではないんだけどね。
とにかく災厄を過ぎ越しそれを記念とした祭での生贄の小羊は、その夜、ローマ兵に捕まり処刑場へと向うイエスのことでした。というのがキリスト教。なもんで、その晩餐の生贄としてのイエスを思い起こす、それが聖木曜日のミサである。この聖木曜日の夜の聖書の物語はドラマチックである。ユダの裏切り、ゲッセマネでのイエスの悲痛な祈り。そして逮捕、弟子達の裏切りと嘆き。説教臭い言葉が大量にある福音書でもここのドラマチックな展開はすごくストーリー描写が豊かである。聖書の物語を書いた当時の人々の間にこれらのエピソードはかなり強烈なものとして受け止められていたのだろう。
ゲッセマネの祈りの光景は特に好きだ。来る運命の前の静かな祈りの光景。しかしその祈りは悲痛である。
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ところで今日、島は大潮である。明日は満月で干潮差が更に激しくなる。天空の月は真ん丸であるだろうが。。。今日はあいにく曇空。それが晴れると月明かりはすごく明るく夜道も明かりがいらないほどだ。目の前の海に落ちていく月が波を幻想的に照らす光景に、自然の暦の素晴らしさを感じるひとときでもあるよ。