ロゴスと知

先日コメント欄に「イタリア人の識字率は低い」と書いたらある方から識字率を文字通り文字が読めないとするなら「イタリア人の識字率は日本人ほどではないにせよ高い」「イタリアに住む非イタリア人は識字率が低い」とのご指摘を受けたですよ。
ところで、文字は読めても、読解力がないとなるとこれまた別で・・・という話から、読解力のない若い司祭が多いよ。という話となった。なんというか教会に蔓延する「知識」への否定的な価値観はなんとかならんものか。ということで。黙想などで受けたことを他者に伝えるとき「知識」は必要となる。「知ることと信じることはリンクする」と言っていたが、成程。そう思う。深いなぁ。
私は「知恵の書」がなんとなく好きである。叡知は女性の姿として書かれ、詩的に美しい文章で「知恵」について語られる。我々の受けた啓示をロゴスとして著す時、他者との交感のために「知」は必要となってくるだろう。(そもそも「ロゴス」とは単なる言語ではなく叡知そのものでもある。)その「知」とは単純な「知識」ではなく「叡知」に昇華されていなければならないとは思うものの、他者と何かを共有する、あるいは伝えるといったときの「言葉」には敏感でなくてはならず、その時用いる言葉の定義をきちんと把握して的確に適用するにはやはり相応の知識が求められるとは思う。
教会に限ったことではなく、それらの「知識」は世の中でかなりいいかげんに扱われているんじゃないかと思うですよ。某司祭がやはり日本の教会において「学」はあまり尊重されず悲しい・・てなことをおっしゃっていた。他方でトリビアみたいなものが流行り、他方で知識階級が絶滅種に近い状態になってるってなんだろうね。
因みに美学(芸術)がこれほど尊重されない社会もなんとなく悲しい。
◆◆
上記の続きで「教会は人とイエスとをつなぐ仲介者」という話がでた。日本においてはそれが充分に提供しきれていないのではないかということで、どうなのだろうか?と考えてみた。聖と俗の2分された世界の「聖」が提供するあり方というのをわたくし自身は日本における教会のそれしか知らない。もしくは過去の歴史が伝えるものか。
子供の頃は日本キリスト教団教会学校に通っていた。そこで教えられた光景は記憶にないのだが、ただ小さな(子供向きではなく大人が読むちゃんとした)新約聖書が手元に残っており、そこには色々なメモ書きが残っていた。どうやら聖書を学んでいたらしい。イエスの山上の垂訓はここで記憶されたらしい。無意識の価値として血肉になっていて、慣用句のように聖書のエピソードは私自身のものとなっていたと思う。カトリックの学校で学んだことはシスター達の価値と生き方とそして「宗教」という時間にやって来る神父の教え。それにたびたび行われるミサや典礼の節目に行われる行事、あるいは聖人にまつわる話などであった。思春期のわたしにとっては教会の教えはうざいものでありながら、聖堂で一人で祈ることを好むという按配でかなり個人的なものとなっていったと思う。環境に習慣づいた世界があったのは今となってはよかったかもしれない。物事を考える時にキリスト教の教えは中心となり、それへの批判という形で、或いは肯定といった形で自分自身がぶれながらも中心軸がある為に世界を考えやすかったとは今となっては思う。当時はとにかく反発している時が多かった。思春期とはそういうもので、それを放置して生暖かく見守っていたシスターの懐の深さってのは今となっては有難いものだったと思う。あの頃のシスター達は忍耐強かった。
uumin3さんが洗足の光景を記した聖書のエピソードを引用していらした。

あなたがたも、また互いに足を洗いあうべきである
http://d.hatena.ne.jp/uumin3/20051215#p1
過越の祭りの前に、イエスは、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時がきたことを知り、
世にいる自分の者たちを愛して、彼らを最後まで愛し通された。
…
 夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいをとって腰に巻き、
 それから水をたらいに入れて、弟子たちの足を洗い、腰に巻いた手ぬぐいでふき始められた。
 こうして、シモン・ペテロの番になった。すると彼はイエスに「主よ、あなたがわたしの足を
お洗いになるのですか」と言った。
 イエスは彼に答えて言われた「わたしのしていることは今あなたにはわからないが、あとでわ
かるようになるだろう」。
 ペテロはイエスに言った「わたしの足を決して洗わないでください」。イエスは彼に答えられた
「もしわたしがあなたの足を洗わないなら、あなたはわたしとなんの係わりもなくなる」。
 (ヨハネによる福音書13)

漢字検定協会が募った「今年の漢字」は「愛」だそうですが、たぶんそれは頭の中で留まるならば伝わらないものではないかと思うのです。

私自身はまずイエスがいう「わたしのしていることは今あなたにわからないが・・・」という言葉に反応する。イエスの教えは弟子達に受け継がれるが聖書の福音書のエピソードに於いて、概ね弟子達はなんのことかわかっちゃいない。イエスを失ってみてはじめて「わかるようになる」そういうダメっぷり(誰しもが持つダメダメさ加減)をきちんと伝えている辺りも聖書のすごさだなぁと思いつつ、「いつかわかるようになる」という相手への信頼がそこにある。「判っていないから、今畳みかけるように教えねば」という一方的な感じではない。ここに「人への信」があることに心打たれる。uumin3さんがおっしゃる「愛」の形の一つではある。
「互いに足を洗う」というのは色々と示唆があり、一概にこうだと言えないけれど。触れ合うという言葉が介在しないコミュニケーションであり、足を洗うという当時の習慣(招かれた客は足を洗うという習慣があった)から考えることもあり、また応用して考える時点でその対等な関係性を示唆するものでもあり、足をあずけるという信頼の関係性でもあり・・まぁ様々である。
キリスト教は関係性の宗教で、神と人、或いは人と人との関係性をいつも考えさせられる。愛は「関係性」の中で成立し得るものであり、単体では生じない。自己愛というのもあるけど、自己を他者のように見立てて「愛する」という関係性を意味する。
そもそもが三位一体という発想も関係性から来るものであり、聖と俗という2分された世界もその互いの関係が却って意識される構造となっているし、聖人という存在の提供も他者の行いと自分の行いという関係を想起させられる。確実な他者がどこかにあるという思考で成り立っていると思う。
その他者に語る言葉。「関係性」の中で他者と自分という、ことに他者というものを意識したうえで、そして他者への信をどこかに置きつつ、尚且つ受け取る側の視点を想像しながら、つまり自分自身の言葉を客観視しながら語る知恵も必要とされるとは思う。
日本の教会が・・というもの言いは実は好きではない。なんせそういわれても他を知らないわけで。上記に挙げた体験の中で不満に思った事はない。なにかを捉えるのは結局自分自身であり、教会は提供し続けていたとは思う。語らずとも沈黙のうちに語りかけてきたものがあると思う。その根底に信徒への信が存在していたとは思う。ただ、昨今は信徒への信という点においてどうなのかなぁ?と思う事も多いのは確かだ。でもそれは世俗においても同様だとは思う。教会世界に限らず他者を信用しない。或いは出来ない状況に囲まれている。そういう世界では個人が孤立してしまっている場面も多い。絶えずあちこちで多くの言葉は語られている。しかし言葉数は多いのは他者に信がおけないからか。
ところで、話は私自身が考える問題に引き付けて考えてみたが、冒頭に指摘された「日本の教会が提供しきれていない」ということの問題はおそらくまた次元の違う話であろう。私自身は系統立てて神学をやったものでないし、神学の中心、或いは教会の世界の現場のことは判らないのでその辺りは想像もつかないけど。なにか結実となるものを期待する。