『キリスト教とはなにか』という本の備忘

哲人集団G★RDIASのkanjinaiさんがこの本読んで?を出しておられた。
http://d.hatena.ne.jp/gordias/20071016/1192546004
なんで一応備忘。買う本にするかどうかはわからないけど。

キリスト教を問いなおす (ちくま新書)

キリスト教を問いなおす (ちくま新書)

内容(「BOOK」データベースより)
平和を説くキリスト教が、なぜ十字軍など戦争を起こしてきたのか?キリスト教信者には偽善者が多いのではないか?信仰心に篤い人が、不幸な目に遭ったりするのはなぜか?キリスト教に対し、このような疑念を抱く人は少なくない。本書は、こうした問いに真正面から取り組み、キリスト教の本質に鋭く迫っていく。キリスト教徒によるユダヤ人迫害などの事例から、神とは何かを真摯に問い、隣人愛とは何か、祈りとは何かを追究した本書は、これまでにないラディカルなキリスト教思想の入門書である。

kanjinaiさんのご紹介を読んで、どうやらこの書の護教的な様子がうかがえるので読む気がまったく起きないような本である。とはいえよくありがちな世間のキリスト教に対する疑念がづらづらと並んでいる様は壮観である。

そもそも一つの思想を奉じる集団など、ろくなことにならないのは歴史が証明している。国家集団、特定の民族集団、イデオロギーセクト、どれもが本人達が考える「良き理想」を掲げながらもろくでもない結果を引き起こしてしまう場合が多い。宗教だって同じようなもんだ。人が構成する集団なんてそんなもんだ。ちょいとしたその辺のサークルだって内部分裂したり、批判しあったり、と人間同士の争いが生じている。それでも人は社会性のある生き物だから共同体を作る。生きるうえでの便宜上造る。それによる功があるからこそ造るわけで。問題はそういう共同体が自省能力を失ったときだと思う。

この書はその自省を書き連ねた本だとは思うけど(たぶん)。まぁそんなの百も承知なんで読む気が起きないわけだ。わたくしが属するカトリック教会なんてろくもんじゃない。と常に思ってますですよ。ろくなもんじゃないけど、ロクなのにしようと頑張ってる人が沢山いるから、希望もあると思ってますが。ゆえに「旅する教会」という言葉に込められた深い意味をかみ締めることになるわけなのだが。

んで、kanjinaiさんが紹介してくださった「キリスト教の教えとキリスト教徒の行為は違う」という記述は正直、教会の否定だと思う。教会というのは制度上の教会ではない。キリスト教徒全ての営みであり聖霊の働き場であると考えるわたくし的には、そこ切り捨てるのは愛がないというか、罪びとは全部切り捨てて安心ね(はぁと)な発想には酌みできないかも。キリスト教徒が犯した罪を共に背負う覚悟なくしてキリストには近づけんと思うのだが。というかイエスは人間が犯した罪を背負って死んだだとするのがキリスト教ではないのか?・・・・などと考えてしまいました。なんか隣人の罪は嫌だってのは「汝の隣人を愛せよ」に反する気がするがどうだろうか?このロジックではなんとかしたいと思って頑張っている「キリスト教徒」達への愛がないというか、それより罪は己に内在する故に罪をこれ以上犯さぬよう自省する必要ありなどと思うのだな。
とはいえ、たしかにキリストの教えを忠実に守らぬキリスト教徒はキリストの教えに反しているとは言えるが、しかしその「教え」ってのが曲者で、これが神の意志を忠実に解釈してるといえるかってのははなはだ難しい。現に時代の変遷で解釈が変っちゃってるものも相当ある。神の意志など実は解らぬが片鱗だけを知っているぐらいの程度でしかない。ただまぁそれだとなんでもありになるんで我々は聖書に基づいた教えからある程度のガイドラインを導き出し守ろうよとするわけなんだが。(このガイドラインだって教派ごとに様々で、とりあえずわたくしなどはローマカトリックの信徒なのでバチカンが出してくる教令なんぞを「ふむふむ」と受け入れてみたりするわけですが)で、中にはその「教え」ゆえに罪犯す馬鹿とかもいるわけで、十字軍とか魔女裁判とかだってそういうわけでしょう。だから「違う」なんて言えない。中絶反対を奉じるあまりに中絶医殺した馬鹿とか「教えを守った」と本人は思っているわけで。(ま、イエスは怒ると思うけど、そういうヤツの罪も背負うだろう)

もっとも、上記の批判は本書を読んでないんで土井がそこに到った経緯や、ロジックがわからぬのでこの書の批判とはならないけど。なんで読んだ方がいいとは思うんだけど、自分探しとか嫌いなわたくし的には、これ読んでナニか得ることはなさそうなので、モチベーションが低い。