神観その2

思った以上に多くの方から反応があったので、少し整理してみます。
ソドム街さんへの応答に書いたように、わたくしは「三位一体」という父なる神、子なる神、聖霊という三なる神が一であるという関係性を大層美しいと思うので、神そのものに人間的な解釈に見る「父」とか「母」というものを考えたことはなかったのですね。「父」という言葉の概念は人間的な認識知をはるかに超越しうる様々な要素が包括しうるものだと思っておりますし、「父なる神」の性質なるものを規定するならばそれは「真・善・美」という言葉に現されるものであると思うのです。
岡田大司教が『福音宣教』誌上でその「母なる神」を持ち出したのはインカルチュレーションを考え、日本における布教に於いては「母なる神」にイメージされる「慈しみと、慈悲」を前面に出すのがいいということでした。子を慈しむ母なる神の姿こそがいいというのですね。勿論、以前から語られてきた「父なる神」にもそれは包括しえるものです。つまり福音宣教における言葉や神観といったときにそのような「赦しの神」「慈しみの神」「愛の神」を強調しようじゃないかということだそうですが。
これについてある司祭(わたくしと同世代)が「六十代の人々の中には教会の語る神の姿が父性的であると主張する人々がいる。たぶんキリスト教の日本的な地平での受容の試みの成果なのだろう。」と言っておりました。どうやら世代間に認識の差異があるようです。
あと、先日のコメントでも出ましたが、プロテスタントにも差異があるということでしたが、わたくし自身は子供の頃プロテスタント教会教会学校に通い、中高をカトリックの学校で学びましたので、当時の指導司祭は今は80代くらいだったり、鬼籍に入られた方もいるでしょう。プロテスタントの教会でも、中高のカトリック教育でも別にそうした「地上の父」的な厳格なイメージを教えられた記憶はありません。父という言葉に規定される神を意識するということもなく「父」は扱われている神を指す単語として認識されるだけで、自分の親父とか世の親父を喚起するものとは別次元のものだと自明なものとして認識しておりましたね。
ですからプロテスタントが父性的な裁く神を主張しているとも思えませんし、60代の司祭を導いたであろう指導司祭たちが激しく厳格だったのという印象もありません。ただ、遠藤の描く私小説での光景は確かに厳しい光景もあるので、戦前の司祭によってはそういう怖い人もいたかもしれない。シスターにも時々とんでもない厳しいことをいう人がいたという話を聞くこともあるので戦前はそういう光景はもっと強かったのかもしれません。
わたくしが体験した限りでは、人間的感覚で認識されるのは寧ろイエスの性格だったでしょう。思春期にはイエスには少し反発しましたもの(笑)偉そうなこといってるし、ひげ生やしていけ好かないヤツとか思っておりました。。。ただ、唯一そのイエスに何かを感じたのはやはり「十字架の死」でしたね。この不条理な死の光景は批判することは出来ず、そしてそれこそがクリスチャンである自分の発想の根底にあるのだとのちに気づくことになるのです。ですので父なる神と子なる神の「関係性」はわたくしにとっても重要なものとなるのです。
プロテスタント神学者の多くは聖書から知ることが出来るそのイエスの像をあれこれとそれぞれの私的イエスを描いて見せます。前回で取り上げた田川健三、そして八木誠一、青野太潮、荒井献等々、優れた福音書の解説者たちにはそれぞれの深い理解に基づいたイエス像があるのだと思わされます。さすが聖書に精通したプロテスタントの重鎮だけはあると思いますね。

閑話休題
さて、先に引用した司祭の言葉をさらに引用させていただきます。
(私的なモノからの引用なので敢えて記述者を明記しないことをお許しあれ)

私は父性的か、母性的かという神のイメージの理解の仕方自体にあまり意義を
感じていない。そもそもそのような二者択一式の神理解はキリスト教にはない。
また父性的、母性的というカテゴリーそのものが神の本質を表してはいない。
いわば神の表層をなぞっているにしかすぎない。神は産み出す神であって、
その豊穣性は限りない。しかしだからと言って神が母性的だとはキリスト教
文化では言わない。神のもつ豊穣性を示す言葉として「善そのもの」という言
い方は、アベラルドゥスやボナヴェントゥラとその流れを引き継ぐフランシス
カン神学の作品の中で見ることができる。が、この数世紀、このような言い方
はあまり神学の分野では語られなくなった。

わたくしが感じたことを簡潔にまとめてくださっていますが、さすが司祭。エキスパートだなぁ。と感心しつつ、そうなのですね。私を教え導いてくださった方たちは誰も神が母性的だとか、父性的だとかは語らなかった。善なるものだ、愛なるものだ、美なるものだ、ということは教えられたとしても。

つまり60代前後の司祭の母性や父性にこだわる視点には「父」という言葉に対するある種の個人的経験がそれへの反発を喚起しているように思えます。これは上記の司祭が指摘したとおり、彼らが受けた教会の教えや、或いは生きてきた社会の経験から、「父」は否定したいものとしてイメージされてしまうのでしょう。それは「父なる神」という言葉の「神」を見ているのではなく、彼らの周辺に存在する「父」を見てしまっている。

こうした誤解は、もしかしたら女性名詞や男性名詞を持たない言語にあるのかもしれません。(私はそうも思わんのだけど)

わたくしは岡田大司教が「慈しみの神」という神の愛を主張したい気持ちはわからなくもなく、ストレスをためた多くの現代人への応答として考えたいというのも判らなくはないのですが、どうもすっきりとしない。豊かな先人達が残した思索の数々に立ち返るならば「西洋の神」には絶えず愛と慈しみがあることに気づかれることがあると思うし、そもそもが三位一体の奥義からそれは敢えて語らずとも理解されうるものだと思うのですが。どうなのでしょうか。