『悪人顔ですみません』ベネデイクト16世 昨今評判が悪い教皇による弁明

http://airbook.jp/AirSIN/14673#
最近、ローマ・カトリック教皇は「失言」等の問題でメディアにぶっ叩かれまくっていて、我が国の麻生太郎並である。
曰くムスリムを馬鹿にしたとか、コンドームについての科学的認識が著しく欠けているとか、ホロコースト問題に絡む困った発言をする司教破門を解いたとか、とにかく就任以来、メディアはぶっ叩きまくりである。メディア的には悪の枢軸的なブッシュがいなくなった今、サルコジベルルスコーニをぶっ叩いても世界規模での面白みに欠ける。なのでネタ的に叩いて美味しいのは残るは教皇ぐらいなもんである。宗教を叩きたくてもイスラムは怖いし、ユダヤはややこしいし、仏教のダライラマは叩くより応援しないといけないし、プロテスタントは誰を叩いていいか判んないし、なので叩いても命に関わりがなくしかも話題性ばっちりな美味しい対象はやはりローマ教皇。しかも前教皇と違って悪人顔。

本書はそうした気の毒な教皇からの弁明本である。ごく最近に起きた様々な誤解についての釈明ではあるが、しかし同時に世俗メディアの情報取り扱いにおける知的誠実さの欠如を告発するものでもある。

カトリック世界にある聖域と俗界という二つの宇宙が交わる時に起きる摩擦はあきらかに存在する。ローマ教会が積極的に世俗と関わろうとするために起きる摩擦についてわたくしは擁護はしない。それについてはいずれ書くつもりである。しかし聖域のロジックというものは存在するし、その辺りについての思考を知るのは必要だと思う。例えば生命倫理の問題、コンドームなどの問題も、何故そう考えるに到ったのかという原点を鑑みるに、それらは本来裁きのためにあるのではなく愛の実現のためにある。しかし現実に応用する場面においては様々なケースがある。聖域の理論が裁きに繋がったり、救いとならず足かせとなる場合がある。聖と俗という二分した世界のなかで聖に留まらんとする立場からの論理は俗に留まる我々からみると空疎にも映るが、しかし俗というものを見直す時に俗の中の視点だけでは解決しないこともある。



・・・・・まぁ復活祭も近い4月1日にこの書が発売された意義を黙想してもよいと思いますよ。