裁判員制度とカトリック教会の問題、再び

なにか検索で「カトリック」「裁判員」が異常に多いんでナニかと思ったら、どうも日本のカトリック教会が公式な声名を出したという事で世の中がかますびしいようだ。
バール先生もトラバをくださった。

こんなニュースになっている↓

▼「宗教家、裁判員候補者辞退を」 国内カトリックが見解  朝日新聞
http://www.asahi.com/national/update/0619/TKY200906180433.html
裁判員制度への対応を協議していた日本カトリック司教協議会が18日、司祭や修道者らが裁判員候補者に選ばれた場合には、辞退を希望するよう促す公式見解をまとめた。仮に裁判員に選任されたときには、罰にあたる「過料」(10万円以下)を支払ってでも参加しないことを勧めている。

 カトリックの信徒は国内に約45万人で、そのうち司教や司祭、修道者らは約7600人いる。全国16教区の司教で構成する日本カトリック司教協議会は、国家権力の行使にかかわる公職に司教・司祭が就くのを教会法が禁じていることや、教理で死刑制度に否定的な立場を取っていることなどを踏まえた対応を協議してきた。

 開催中の司教総会で18日にまとめた公式見解では、司教・司祭や修道者らについては、裁判所から候補者に届く質問票に辞退希望を明記する▽辞退しても選任された場合は過料を払って不参加とする――ことを勧める、と明記した。ローマ法王庁からも、裁判員になることは教会法に抵触する可能性が高いとする非公式見解を得ているという。

 一方で、一般の信徒については「それぞれの良心に従って対応すべきである」として一律の方針を示さなかった。ただし、死刑判決に関与するかもしれないなどの理由から「良心的に拒否したい」という信徒に向けて「その立場を尊重します」との表現を見解に盛り込んだ。

この問題については以前取り上げていて、そのエントリをどうも見にきている方が多いようだ。
これね↓
カトリック教会と司法 裁判員制度を巡る問題
http://d.hatena.ne.jp/antonian/20090311/1236780742

一応あらためて解説しておく。

ローマ・カトリックは、出家した聖職者が公的な政治権力に直接関わる事を禁じている。つまり政教分離原則に基づいているのである。

以前、南米で司教が大統領選に立候補した時、この司教は司教という職務を辞め、よーするに還俗した身分となって立候補した。
またアメリカにおいては陪審員制度から聖域の聖職者達が外されるように、バチカンと米国政府とで取り決めが為されている。

またここで勘違いしてはいけないのは、信徒はその制約の対称ではない。ゆえに信者が参加するのは別に問題ではない。あくまでも聖職者の問題としてなのだ。信徒が関わる問題となったら麻生太郎は即座に辞任しなくてはならない。


昨今、日本ではなにやら政治にやたら直接に関わろうとする宗教団体が多い中で、時代に逆行するかのような態度ではあるが、ローマ・カトリックというのは常に俗界に存在する公的権力から独立し、同等な立場をとる。それは例えばカノッサの屈辱に見られるような、俗界の最高権威である皇帝との闘争の歴史などがいい例だが。教会の出家集団は俗権から独立した存在であらねばならないというのがどっかにある感じ。中世やルネッサンス期等、時代によってはそれがぐだぐだだったりした事もあるが、そうした時代でも一つの独立した存在でありつづけていた。だから「アジール」たり得たりもしたわけだ。

これは逆に、政治に教会の力が及ぶ事の防止にもなりうる。神権政治というのはまぁ中世なんかじゃ都市国家と並んで、独立した教皇領があってそこの領地なんかはそんな感じだったわけだろうが、近代という「国家」の創成期はともかくも(フランス革命期なんか司教の癖に大臣してる奴とかいる)少なくとも時代が下がるにつれて、西欧等ではますます政教は互いに自立したものとなりつつはある。欧州では同じカトリック信徒でも、世俗の政治的に保守とリベラル、果ては極左までいるのはそういうわけで、まぁ教会の保守的な人々は保守陣営を応援しているし、キリスト教の名を冠した政党もあるが、信徒だからそこに与せよ等という制約はない。俗界についての判断は、それぞれ個人の自由意志に任されている。
(えてして教会に熱心なのは保守が多いんでそっちが悪目立ちしてる気はするけど、「教会なんか死ぬ時に世話になるか」ぐらいな勢いのなんちゃって葬式教会化してる人のほうが多いんじゃ?と思う)

バチカンが一都市国家という自立した国を持っているというのは、世俗と切り離されるべき政教分離のためでもある。異なる数多くの国々に信徒がいる為にどこの国にも与しない立場を採る必要性があったからだとも言えるが、まぁ、よく考えたら、不思議というか変な存在ではあるなぁ。

ま、とはいえ聖職者といえど各国の国籍を有し、尚且つ、市民として国家の恩恵によくしているわけで、市民としての責務を逃れることが許されるのか?という問題は残るのだが。個人的には政教分離は大変にのぞましいと思ってはいるのでこの判断は一応賛同はしたい。
政治大好きな聖職者は吹き上がりそうだけどね。(・∀・)ニヤニヤ

ところで、はてなーの落合弁護士がブログにこの問題を取り上げておられた。

○弁護士 落合洋司 (東京弁護士会) の 「日々是好日」
http://d.hatena.ne.jp/yjochi/20090619#1245402610
カトリック聖職者、裁判員辞退

落合氏は産経の以下の記事を引用し・・・

http://sankei.jp.msn.com/affairs/trial/090618/trl0906181211001-n1.htm

一方、信徒が裁判員に選ばれた場合、心の負担を軽くしようと「重大な判決にかかわっても裁判員と裁判官、みんなの判断。あなたの責任ではありません」との内容のメッセージも発表する予定だ。

そういうわけには行かないでしょう。裁判員として評議、評決に加わり、決定に関わる以上、最終的には「みんなの判断」ではあっても、個々の裁判員に軽からぬ責任が発生することは明らかです。カトリックともあろう宗教が、こういう無責任なことを信徒に言ってはならないのではないかと思います

・・と所感を書かれていて、ははぁまったくだ。その通りだ。等と相づちを打っていたのだが、あれこれ他の新聞記事を読んでみると、こういう表現は産経にしかない。しかもカトリック中央協議会から出された声名にはそんな事は一言も書いていない。

裁判員制度」について− 信徒の皆様へ −
http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/doc/cbcj/090618.htm

いったい、産経新聞はどんなソースでそんな言葉を引用したのか調べたら、どうも共同通信から配信された記事が元ネタなようである。誰かが個人的に語った言葉なのか、それとも中央協議会の声明(日本語)を大変な勢いで共同通信語に意訳したのか、謎である。

誰か教会関係者が記者に語った言葉なら、該当者は落合さんの言葉を噛みしめてください。