『決壊』平野啓一郎 日常にあるカタストロフィ

先日、松本サリン事件の被害者、河野澄子さんが亡くなられた。その夫、河野義行さんはこの事件の容疑者の扱いを受け、メディアに追っかけられていた。記憶では河野さんの家の倉庫だかに大漁の農薬があったからだという理由である。この時、メディアの暴走には違和感を感じ、当時テレビ局に就職した妹にその違和感を話したことがある。この人には理由がない。というまぁ直感的な希薄な根拠からだったが、あまりに悲惨な事件だったゆえに、犯人の特定を急ぎ過ぎるのは危険だと。まぁそういう話をした。のちに妹が報道の現場に関わることになり、この時の「違和感」の問題が常に念頭にあったと。飛び付きやすいネタに飛び付く反射神経でニュースが作られていく、その違和感を現場にいて感じていたという。そうした不満や違和感を度々口にしていたらしいが、報道の場にいることがやがて辛くなっていったという。一度、決壊したそうした流れにおいては、「ちょっと待って、冷静になろうよ」という言葉はかき消され、王蟲の大海嘯のごとき暴流となって全てを踏みしだいてしまう。
この光景はマスに情報化された社会の負の側面であろう。

決壊 上巻

決壊 上巻

決壊 下巻

決壊 下巻

読了。下巻に到ってはこの本のタイトルのごとく読書集中が決壊を起こしてしまいましたよ。昨日、「まだ途中」という報告書いていたのにもう読んじゃったんなら、昨日、つまらんエントリ書かなきゃよかった。寝不足。
仕事の合間、それもフランス革命の本の仕事していた合間に読んでいたのだが、まぁ異質とはいえ、なにかのレジュームの「破壊」を扱っているのは共通してるよな〜とかロベスピエールの顔を描きながら考えていましたよ。
昨日も書いた通り、平野啓一郎は「はてな村」住人であり、ネット世界を普通に泳ぐこの年代の典型的な人である。ネットで歩き回っている範囲がおそらく似ているのだろうか、物語に描かれた世界観や念頭に置いているであろう具体的な事例を共有してしまう為に、かなり身近な思考として読むことが出来た。ああ、これ「廃虚エクスプローラー」の人のサイト見に行ったのかな?とか、2ちゃんねるニュー速板はチェックして見てるんだな。とか、ネットを扱う現代小説が、それもネットの「暗闇」などを扱った小説などがなんとなく他者的な視点で観ているのに対し、平野の視点はその渦中にいる存在であり、当り前にそのツールのある世界で生きている人間のそれである。世代が若い作家だから当然であるが、彼の作品自体はじじぃが書いてるような、「小賢しさ」ともネガティブに評されるような、つまり老成感がそこはかとなくあるために、同世代作家では書くことが出来ない部分まで掘り下げられてはいると思う。その点でもはてな村に生きているわたくしは安心して読めた。・・という言い方をするには小説自体は救いのない内容なんだが、ブログ世界やネット世界を泳いでいて感じていたことが言語化されているから、デジャブすら覚えてしまう、変な予定調和のごとき安心感があったと言いますか。変な評価ですが。

物語のテーマは、価値の多様性と一元化していくものの対立とか、内面にある多様な自分と表象される言語の問題。そこから引き起こされる言論と言うものの責任、ブーメラン現象などと言われるようなそれ、そして人間の個の存在と、社会共同体との関係性の現代の社会のポピュリズム化した有様などだろう。そういうモノが引き起こすカタストロフィ、つまり様々に見られる日常のあらゆる「決壊」の列挙でもある。こういうテーマはしばしば多くのブログで冗舌なまでに語られ、はてな村辺りでモヒカンなんぞしてるような人には既に語られつくしたテーマではあるかもしれない。

だからある意味、語りには新鮮度は無い。無いのだが、それらを小説という形式に昇華させたという創造性の点で評価したい。この世代にしか書けなかったであろう小説であり、「現代という現象」を形にするという社会に対する責任みたいなものがこの人にはあるのかもしれないなどとは思った。おそらく多くの創造者はそういう責任感みたいなものはどこかで持ってはいると思うが、そういう感覚をより強く感じる。
こういう現代の病理、ある種の事件を念頭に置いた小説は多い。桐野夏生の『グロテスク』などはまさにその典型だが、個人の内面のどろどろに焦点を当てたそれと違い、平野のこの作品はもっと相対的だ。事件の犯人よりも被害者の視点の方がより多く、寧ろ感情移入としては被害者遺族周りに向くような形で事件は綴られていく。これは昨今のネット議論が被害者遺族に寄り添えとうような声にも呼応しているのだろうが、そっちだけに偏っているわけでもない。犯人の一人の少年の家族周りなどの描写も出てくるので、多数の視点を行ったり来たりする。さらに、中心となる人物が突っ込みコビトを持ってるような性格で、遺族でありながら、容疑者ともなった、この二重の被害者がこの事件を「現象」として覚めた視点で観ていることも、視点の相対的印象を助けていると思う。

まぁ桐野さんの作品よりは大江健三郎の『宙返り』を読んだ後の読後感に近いかもしれない。で、なんだかカタルシスを得たかったら辛い小説ではありますよ。


すでにネットは文字媒体の書籍や新聞、言語媒体のラジオやテレビと同じように当り前に我々の周りを取り巻いている。ネットを否定するは容易いが、それは書籍という形状を批判するようなもので、「宗教改革は紙媒体の印刷術が発達したから起きたんだ!印刷術の糞め!」と言ってるような中世のカトリックの僧侶みたいなもんで馬鹿馬鹿しい。
この小説で描かれた世界は現実であり、ネットの持つ暗部は、ネットのもつ未来性の裏で付きあっていかねばならない暗部である。ゆえに決壊が起きないためにどこで己にブレーキをかけるかは各人に委ねられていくわけだが。その内面の倫理の問題などについても、この小説では様々に語られていく。

にしてもその価値を語る基準がキリスト教の文脈が多いっていうのは、まぁ平野氏が西欧の文脈で物事考える人だからなのだろうが、この辺りでじじぃ感がつきまとうのかもしれない。日本でもそういう浪漫的な時代があったからねぇ。

ところで、発売が6月末だったらしいが既にもう三刷りまで行ってるそうです。すごいなー。
http://d.hatena.ne.jp/keiichirohirano/20080709/1215575739