平野啓一郎『葬送』第2部 読了

葬送〈第2部〉

葬送〈第2部〉

忙しいというのに、読書はした。といってもご飯たべている時に読み続けたコレがやっと終了したのだけどね。
なんせもうショパン様の死の場面が延々延々続くもんだから、ここ数日のエントリもタマに後ろ暗いことを書いて人様に心配かけるわ、芸術家としてのさまざまなことやらを考えさせられるわ、自分のちょいとした過去がフィードバックされるわで、まぁ、自分的には「ろくでもない書物」であった。・・・といっても平野さんの小説がろくでもないのではなく、私の反応がろくでもないだけなんですけどね。
この小説は以前も書いた通り、19世紀の代表的な芸術家、音楽としてのショパン、美術としてのドラクロワ、文学として或いは思想としてのジョルジュ・サンド、それぞれの群像を描いたもので、なにを今更的な題材に、往年の大小説的な手法を用いて、懐古趣味的な印象を受けなくもない。しかし実際には個々の人物の丹念な心理描写を通じて、なんとも我々の同時代的なもの、この我々の時代に未だ脈々と受けつがれていることの根が描かれている。それも一人の人間の生きざま、芸術家ではありながらにして一人の凡庸な小さな人間としての像を通じて、リアルなものと浮き上がってくる辺りに、「う〜〜む。」とうならせるものがあったとはいえるでしょうね。
しかしジョルジョ・サンド夫人の描き方は冷たいなぁ。かなり皮肉な人物になっている。このフェミニストの人物を描く際にかなり意地悪な視点があることに気付かされる。わたくし的にはカッコいい女傑のイメージがあったんですが、平野氏はどこかスノッブさを持ち併せた人物として描いている。それはサンド夫人へというよりは、或る種の現代の運動家達への皮肉な視点となっているようです。
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物語の最期はほとんどショパンの死の床の描写で気が滅入るったらない。
なんとも気の毒なのはサンド夫人に見捨てられたショパンを巡る周りの反応。彼女を死の床に呼んだ方がいいのか?呼ばない方がいいのか?ショパン自身は望んでいるかもしれないと思いつつも、ショパンを棄てた女性である夫人への怒りが周りの人物達を躊躇わせる。本人ではなく友人達の思惑が結局最期の時を与えず、彼の死後も後、その逡巡がそれぞれの肩に伸し掛かっている。
こういう死んだ人への後悔の念ってのは、誰しもある。偉大な音楽家の死の場面で描写されるこのような凡庸さが何よりも面白いといえば面白いんだが、個人的な体験がフィードバックされるもんでまぁ滅入るよねぇ。
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ここで登場する女性でショパンのことをずっと横恋慕している人物がでて来る。なんとも痛々しいがその痛ましい感情が愚かさと共に描かれている。サンド夫人に成り代わろうとしながら成り代われなかった女性として。非モテ女の悲劇的な気持といいますか。そういう人物像に又共感してしまうのが嫌だね。
愛する誰かが他の誰かを愛しているのを傍観してるのって辛いのよね。そして、フィードバックされる過去において、まったくの自分の体験と重なり、死んだ彼が本当に愛している人と、何故再会させてあげることが出来なかったのかと悔やんだあの時を思い出すわけで。そしてそれはしかし自分にとっては身を切るよりも辛いことだったりしたのだけど、ここに描かれた群像の、あまりにリアルな死の床の心理劇とその冷ややかな目線に、まぁこちとら薄暗くなるよなぁ。「正直、すまんかった。」とかショパンのお友達と共に思っちゃったりするのだ。
しかしまぁ、誰かを好きになったとしても、その誰かが他の誰かを思っているのを見るっていう体験はもう二度としたくないなどと思う。それは辛過ぎるです。・・というわけで、そんな憶病者になってしまったゆえに、相変わらず一人もんだ。
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そんなこんなで飯食いながら、一人で後ろ向きな話を読んでいて、いささか激しく不健康だったんですが、やっと終わったのであるよ。ああ。これで解放される。嬉しいよ。
ただし・・・・・・・・うっかりして第二部から読んだので、第一部が残っているのだ・・・・・_| ̄|○
まぁ、地雷の死の場面はもうでてこないんだろうから安心して読むです。