『グロテスク』桐野夏生 持たざる人間の呪詛

島はトロピカ度低いどころか今日は嵐だった。重く垂れ込めた雲が海を覆い、風に煽られた波がリーフに砕け散って津軽度が3くらい。
そんな気分重そうな日には、重い本でも読もうかと、ついに積読だったこれを手にする。

グロテスク 上 (文春文庫)

グロテスク 上 (文春文庫)

映画『セブン』は七つの大罪をテーマにした猟奇的殺人が起きるという話で、ブラッド・ピットが主演していたので日本でも話題になった。「七つの大罪」なんてベタなキリスト教ネタな知識を多くの人がこの時知ったようで、「やっぱ、そういうの意識するわけ?」なんて質問されたりした。まぁジォットーもそのテーマを寓意として人物像描いてますが。
七つの大罪」とは傲慢、嫉妬、憤怒、怠惰、強欲、暴食、色欲という罪を指し、これに「虚飾」などが加わることもある。これらの罪の光景は対比される七つの徳(節制、賢明、正義、勇気(剛毅)信仰、慈愛、希望)と対比される悪の結果であり、ジオットーが寓意として擬人化させた絵ではグロテスクな人物像として描かれている。

桐野夏生の『グロテスク』はあらゆるこれらの悪徳の光景をカリカチュアライズさせてみせる。
登場人物達、凡庸で美しくもない「わたし」怪物的美しさを持つ「ユリコ」努力すれば全てを克服出来るのだと信じて疑わぬ「和恵」常に一番でありつつけねばならない強迫観念の中にある「ミツル」不法滞在の中国人で犯罪者である「チャン」若くして女衒をする同性愛者の「木島」これら全ての人々が醜く、主観的で、人を愛さず、自己愛の中にあり、他者を憎んでいる。「わたし」の告白という形式をとった小説でありながら、他の人々の独白、手記などが挿入され、それぞれが見ている光景の差違に、どの人物もが己を虚飾するがごとく嘘をついていることを我々は知り、いったい真実はどうであるか?が判らなくなるという、黒沢映画『羅生門』のごとき謎を残す。
その「嘘」のグロテスクさと、人物達が語る本音の中にあるそれぞれのドロドロとした悪意がたいそうグロテスクであるという、まぁタイトルそのまんまな小説であった。サドの『悪徳の栄え』のようないさぎのよいスカっとした悪徳ではなく、登場人物達は自分自身を一番嫌悪し、自己愛を持ちながらして自分自身を憎んでいるような、小市民的なグロテスクさで、読む側には登場人物に対する嫌悪しか感じられぬ。


正直、文体は大層通俗的だし、人物像もリアリティがない。滑稽なまでに卑小で、破滅的で、それがあまりにも漫画的だ。主人公達が暮らした学園の光景も単純すぎてリアルさを感じない。だがそれもまたグロテスクな印象に一役買っているといえるが。というのもそれらの光景を描いているのが一人称である「わたし」だからだろうし。彼女自身の価値を通じた視点そのものがそれほどに下らなく通俗的で単純化されているともいえるが、この辺りは作者の計算なのか、天然にただそういうリアリティのない作家なのか、他の作品を読んだことがないので判らない。

まぁ、この生理的に受け付けない通俗性とか、畳みかけるような、「悪意」の連続、嫌悪しかのこらぬ光景、を作者が丹念にこれでもかと書きつづっている光景がもっともグロテスクで、あの桐野女史の独特のはっきりした顔立ちと相まって、その書斎での光景を想像するだに鬼気迫る小説ではあるなと。そういう気迫は感じられた。

しかしなぁ・・「東電OL殺人事件」という実存の事件からここまで膨らませるのはすごいというか、被害者の遺族がいるのに度胸あるなぁとか。別のことを考えてしまった。或る意味「悪意」は作者が一番熟知している感覚なのかも。侮れなし。

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いくつかの書評を見て回った。
己の中にある「悪意」がそれぞれに思い当たると書いている人が意外と多い。そういう意味で、この小説の「醜さ」は個々には大層身近ではある。姉妹間の確執。圧倒的な美に対する敗北感。プライドの為の涙ぐましい努力。周りが見えないほどに突っ走る愚鈍さ。投げやりでとっ散らかったような生き方。そして孤独を怖れながら孤立する自分。そういう体験をまったくしなかった人間はそうそうはいないだろう。しかし概ねはどこかで克服する。諦める。その頚木から逃れる為に無価値なものへと追いやる。等々、それぞれがそれぞれになんらかの克服手段を持って大人になる。破滅に向かう前にブレーキをかける。
だからそれをしないまま生きているってのは「怪物」であり、そして誰もが(それが己の中にあるだろうが故に)嫌悪しながらのぞき見てみたい衝動にかられるようなそういう存在になる。そういう視点の欲望を桐野夏生はよく知っているとは言えるかも。なるほど評判になるだけはあるかもしれない。
ただ、あまりにも悪意ばかりの幕の内弁当状態で、いささか食傷気味になったよ。わたくし的には。