シスターが来る。果ての島。

本日は曇。どんよりと曇。とろぴか度低し。
そんなダルな島に隣の島からシスターが来る。島で唯一のカトリック家庭訪問であるよ。なんせうちの島は地の涯て。最果て。これがお隣の沖縄だったら全然最果てじゃないんだが、鹿児島県だもんですごく最果て。ガラパゴス諸島くらい。なもんでまぁ孤立した宇宙って感じ。そんな島にもシスターがやってくる。
わたくしが来ない前は、森遥子さんがカトリックだったもんで森さんとこにいらしていたようだ。亡くなられてから久しく、島には信徒は隠れの人が一人いるかいないかみたいな状態だったけどそれでもシスターは根気よくやってきた。宣教の為に地の果てまで行く修道女会のシスターで、頭が下がる。まぁキリスト教ってのはどこにでも行く余計なお世話的宗教だが、しかしそんな根気に、島の人もシスターを日常に存在する人と受け入れていて、シスターも訪問する家庭には困らなかったようではある。
シスターは別に押し付けるわけでもなく、しかし天然に「イエス様は・・・」と話をなさる。もう自然にそういう言葉がついて出る。いつもは隣の島で子供たち相手に話をしたり、日曜日にこられる神父様の手伝いをしたりという素朴な田舎の教会暮らしを延々とし続けている。その日常はエンドレスで起伏がない。毎年来る典礼が、永遠に永遠に続いていく。そしてシスター達は老いてゆく。ひたすら島の教会の日常を生き続けながら。
田舎司祭であるM神父様も同様に、3つの島を行き来する。徳之島の幼稚園と、沖永良部の教会と、毎週いったり来たり。ドイツから来られてもう日本の方が長い。大変に教養豊かな神父様だが、しかし島の人に合わせて、ミサをなさる。難しいことは言わないが、コムズな話も聞けば響くように答えてくださる。島の毎年を延々と営み続ける。
そういうのってなんかすごいなと。偉大だななどと思う。

なにかを為さないと気が済まないとかない。変わらぬことをし続ける偉大さがあるなと。

シスターと社会問題の話になった。カトリック新聞などを読むと、政治的な社会的な、日常から離れた大きな枠組みのことにも興味を持たないといけないのか?と一瞬思うのだが、なにか例えば憲法のこととかそういうことに自分なりの意見を表明しないといけないのか?とか感じるのだけど、しかし結論を持つことに怖れを感じます。とシスターは言う。自分にとって今大切なのは島に生きる信徒達の日常を世話することで、「そんな大層なことを考えないといけないとなると(それは分を超えているようなという意味なのか)怖れを感じる」とおっしゃる。
「いや、シスター方や神父様達がその日常の教会を維持し続けておられるからこそ信徒は安心して家だと思えるのです。」「それぞれに招かれ方があるとは思うので確かに社会的問題を考え行動なさる方もいるでしょうが、しかしそういう教会の基本的な日常を守ってくださる方が先ずいて、はじめて教会は成り立っているのだと。そう思うのです。」などという話をした。実はそれこそがなかなかに出来ないことなのだと思う。

ところで、シスターはキャッシュディスペンサーを使ったことがないと話していた。銀行のカードを持っていない。修道会から「今月の経費」を渡され、それでやりくりするらしい。それもほんとに微々たるもので、すごくシンプルである。「余分に使うことがないから」だそうだ。余分の出費が必要な時はいちいち申請するそうです。だからATMの使い方が分らないと。うーん。今どきすごいな。