読書中の二つの本『時が滲む朝』『決壊』

二つの小説を平行して読んでいる。

時が滲む朝

時が滲む朝

決壊 上巻

決壊 上巻

何故二つ平行して読んでいるのか。理由がある。というか言うほどのことでもないんだけど。
日本の現代小説、二作である。海外もんばかり読んでないで日本文学も読まんといかんとね。
・・と、まぁ芥川賞をとったという楊逸の『時が滲む朝』と6月ごろかなんかに出た平野啓一郎の『決壊』をポチっとして購入した。
中国人でありながらにして日本語で、しかも天安門事件を題材に書いたという、それだけで激しく興味深かった楊逸の『時が滲む朝』はかなり期待した。・・・が、正直、読み続けるのが困難になった。薄い本だしすぐ読めるはずなのだが、どうにも登場人物の会話や様々な描写が気持ちの上で上滑りしてしまう。あの六四天安門を同時代的に知っているからこそ、中国でその渦中でそれを見て体験したこの作家にかなり期待したんだが、期待した自分が馬鹿であった。
以前にも芥川賞候補になったらしいのだが日本語に難ありということで駄目になったそうだが、今回もこなれていない。それはまぁ仕方がないにしても、どうにも薄っぺらい感がつきまとってしまう。そういうわけで読み続けるのが辛くなり休憩したくなって、平野啓一郎を読みはじめてしまった。
平野啓一郎の『決壊』を読んでほっとしたのは、当然ながら母語を用いているからだけではなく、この現代の作家の生きている世界観、つまりわたくしもよく知っている「はてな」というブログ界隈をうろついている世界観が反映されている作品に、以前読んだドラクロアを題材とした小説よりも身近な感覚を持ちながらも、人物の心理描写の苦しいまでの執拗さ、登場人物が己の政治感とか思想観を滔々と語る様などに、なんといいますか、楊逸を読んで生じた不満を解消してもらったという按配。ここまでネチネチと粘着に心理描写してるとしばらく自分が寝ててもご飯食べていても自己分析とかしていて、辛くなりそうだ。毎日の生活が、その呼吸すら文字に襲われ、文書化して結晶していくなんて気が狂うかもしれないが、よく考えたら作家なら常にそういう思考をしているだろうし、耐性が出来ていそうだ。
つまりまぁ、楊逸にはそういう掘り下げ感が欲しかった。いや、平野はかなりオタク的なんでこれまたそれが個性なんだし、別にそれだけがいいわけでなく、さらっと書くなら書くでもいいんだが中途半端感を抱いてしまう。物足りなさだけが残って進んでいく。
とはいえ、まだどっちも全部読んでないんで感想には早過ぎるし、また今度書きますが、楊逸さんに芥川賞は早過ぎたんじゃ?と思う。もしかしたら母語ではないから、なにか書きたいことを自在に操れなかったこともあるんではないか?とか、母語で書いて日本語訳にしてもらう方がいい作品がかけるんではないか?とか思ってしまいましたです。どういう結末に向かうのか気を取り直して読まないと。
あと、平野啓一郎の本はどうも水のんだ濡れた手に黒いのがくっついて頁を汚したりしてしまうんで、菊池信義さんに文句いいたい。かっこいい装幀はいいんだが、ここで水飲んだんだなとか判るのってすごく嫌。白くてぴかぴかした表紙に指紋がどかどか付きそうなんで、澁澤龍彦みたいに真っ黒にするとかしてくれ。くそー。なんか平野氏のブログなんぞを読むと色々理由があるらしいんだけど、その理由に反する現象で汚れてしまうのは悲しいぞ。人に貸して、あ。ここで水飲んだのね。ここ読んでる時はご飯食べてたのねとか。バレるのがなんかやだ。

こういう理由だそうです↓
http://d.hatena.ne.jp/keiichirohirano/20080628/1214656679

夏に読むのは失敗だったかも・・・しくしくしく。