マリアを侮辱すると怒り出す人々が多い件について

昨日、ぐにゃぐにゃ書いたが、イエスを侮辱すると怒り出す人が多かったり、マリアを侮辱する人がいると怒り出す人が多かったりするのは、ある種のセクハラ的な心理が働くんだと思う。
理屈とかそんなのは抜きに。
特に教会の場で「マリアはレイプされた」なんていう話はかなりセクハラの部類に入るかもしれない。
こうなるとその素材を別にそういう意図でもって持ち出していないにも関わらず、ぐがーーーーーっ!と怒りのスイッチが入ってしまう状態なのは昨日見ての通り。語り手の意図とずれまくって違う方向に暴走してしまうことは既に書いた。
実はたとえ話としても、生理的にわたしも実はこういう文脈は駄目である。
レイプというのは激しく想像するのも困難であり、恐ろしいものである。そうした恐怖感は女性じゃないと判らないかもしれないが、もともと伝統的にそうした物語として語られてこなかった物語にそういう暴力を擦り込ませることというのは、やはり多少嫌悪を感じてしまう。
女性ではなくとも、例えばマリアを母として見ている人間にしてもそうだろう。かぁちゃんがレイプなんていやだいやだいやだ。スイッチが入ってしまう。

聖書読みゃ処女懐胎なんてありえなくね?的にそういう疑問は当然起きても不思議じゃぁないんだが、そこんトコは大人としてあきらかにしない・お・約・束・というのが2000年の伝統の中にあったんじゃまいか?まぁ判んないままにほっときましょうよみたいに。

ところで、こうした物語を考える時、レイプされた女性そのものの存在自体はどうよ?とかは思う。レイプ事件の被害者は二重に被害に遭うと言われている。レイプという被害と、事件被害に対する無理解な態度である。女性にとっては屈辱的な死でしかないレイプというものは、「なかったことにしたい」シロモノであると思う。公にニュースになってしまうと傷つくのは被害者だと思う。だからあまり実態があきらかにされないシロモノでもある。宗教や文化が違えば、石打ちにあったり、身内に殺されたりしかねない。自殺してしまうような人もいる。

だからお気楽に「レイプ」を語って欲しくないという心理はわたしにも働く。

どういう文脈でそれが語られるにせよ語るならばかなり慎重さを要するだろう。その説を採択するにしても、その説を採択したことを批判的に言うにせよ、その説を紹介するにしても、いずれにしても慎重さを要することではあるなといいますか。レイプそのものをお気楽に持って来ることも、或いはレイプ説批判する時にレイプされた女性が汚いものになるかのように見る視点があるなら、そっちも違うわけで。だから何故「レイプ説を話す」のか、或いは何故「レイプされた説に反対」なのかをあきらかにしないといけない。

そういうわけで、そういう話をわざわざ取り上げたくなってしまう心理とはなんだろうか?ということにはかなり興味深い。
カトリック教会破壊を目指してるとか、そういう陰謀論とかそういうんじゃなくて、その話が気になって仕方がない人が個人としてそこに執着したがる心理。それは何故?などとは思う。

そこんトコがあきらかでない限り、かなり他人事的に「レイプ」を見てるんではないかと批判されても仕方はない。
それほどまでに難しい素材であることを論者達は自覚するべきだと思ったりするのだ。