我なにゆえに教会を信ずるか

この↓ギョーカイネタの続きである。
http://d.hatena.ne.jp/antonian/20080812/1218546646
昨日のエントリでこのギョーカイ内では紛争が絶えない状況の具体例があのように存在することを知った方もいると思うが、まぁとにかくキリスト教カトリックという教派ではこうした紛争が絶えない。歴史的に見てもしょっちゅう炎上しあっている。それぐらい馬鹿集団である。平和と言いながら論争している馬鹿である。隣人愛といいながら隣人をけなすアホ集団である。ここにはある特定集団が全部仲良くなんてのは理想にしか過ぎないことが見て取れる。つまりまぁ人間がもつ原罪という光景の縮図であろう。

カトリック教会内では、保守とリベラルがとにかく仲が悪い。或いはバチカンという中央機構とそのバチカンという官僚に対する反発を持つ集団が仲が悪い。ミサというもの一つとっても、昔の典礼がよかったと言う人と、どんどん現代的にしようぜという人と仲が悪い。マリア様萌え派と、マリア崇敬なんか嫌いだというような人も仲が悪い。世俗の政治的態度が右翼と左翼でも仲が悪い。学究肌と信仰肌の人間も仲が悪い。まぁとにかく仲が悪いこと悪いこと。しょっちゅうあちこちで紛争を起こしている。そしてカトリック教会の構成員はカトリック外の存在をけなすより、内部似向ける目線の方が辛辣である。プロテスタントと喧嘩してるより同じカトリック同志の方が遥かに喧嘩数が多い。どうかんがえてもこれが聖なる存在かって問われると、違うよなぁというしかないのである。つまりまぁ駄目集団であることは確かである。

こんな教会を愛せるのか?ってぇと実はまぁわたくしは愛していますよ。こんな教会を信じるのか?ってぇと、まぁわたくしは信じますよ。
なんで?って、そういう話を今日はしてみる。

カトリックではない人でも上記のカトリック教会の光景に既視感を覚える人はいると思う。
実は日本という国で起きている様々な光景にまったく同じだからである。日本という国を構成する人々がいまここで、ネットの中で絶えず論争し続け紛争し続けているのにも似ている。反日馬鹿サヨクという罵倒や、馬鹿ネットウヨへの罵倒などに満ちあふれていたり。官僚批判が起きていたり、戦前は良かったなどという人と戦前の帝国主義はクソだったという人とか、護憲と改憲と対立しているとか、中国やアメリカへの態度でも意見が分かれる。まぁ喧嘩が絶えない。まぁ日本もかなり駄目集団ではある。

教会はそうした「共同体」の宿命を同じように抱えている。
それは人間という社会性を持つ存在の宿命でもある。

カトリック教会では伝承というものがあり、過去のそういう馬鹿げた論争をしながらでも伝えてきたなにかがあって、細かい解釈や有り様は時代の変遷とともに色々と変容しては来たが、根源の部分の原則は変わってはいない。そしてその原則に基づいた伝承をを2000年間伝え続けようとしてきたのが教会という人間集団である。

わたくしはこうした連綿となにかを伝え続けようとしてきた人々の思いというのがなんとなく好きだ。個々にはナニそれ?と思うこともあるし、黒歴史としかいいようのない馬鹿げたものもある、(異端審問はその最たるものである)しかしカトリック教会はそういう馬鹿げた黒歴史を反省したり、或いは変容しながらも、根底にあるなにかを伝え続けてきた。根底であるなにかについては変わりなく受け継がれてきた。
それを変えずに伝え続けてきたという辺りがすごいというか、こういうのをギョーカイ用語では聖霊の働きなどというのだが、奇跡的ななにかでもって伝えられたなどとかんがえるゆえに、「我、教会を信ず」という言い方になる。この辺りはちょいと電波分野なんですが、私は一応その電波集団の「聖霊」とやらを信じると告白してる人間なんで、わたくしも「我、教会を信ず」とか思ったりするのです。

その教会の内部にある、今そこにある様々な分裂めいた論争も、喧嘩も、駄目さ加減も、正直そのまま「なにそれ?」「駄目ポ」などと思うのだが、それでもそういう営みは人間であるが故に愛するなどと思うこともある。

人間は不完全で、ギョーカイ用語で言うなれば「罪深い」存在である。故に駄目さ加減というのは当り前なのである。一生涯の生活全てが駄目じゃない人間がいたらキモイかもしれない。馬鹿げたことをしたり怒ったりは普通の人間に自然にある。イエスですら腹を空かせてイチジクの木に八つ当たりをしていた。そういう駄目さかげんをして、落ち込んだり自分が駄目駄目だと思うようなのが当り前に人間であるというか。聖女として名高いマザー・テレサでさえ自分の駄目さ加減を正直に吐露していた。マザーも若い頃は怒りに身を任せるようなことはあったかもしれない。聖女のメンタルですらそれなのだから、一般、ぴーぽーな我々などいうまでもない。
ギョーカイではこうした不完全な人間を神は愛するなどという。神に立ち返る人間を忍耐強く待ち続けていると考えている。それからあきれて時々怒る。怒りながら未来の人間にやはり期待している。まぁその怒り方が尋常じゃないので滅ぼされたりしていたりして、人間としてはたまったもんじゃないし、トンでもではあるけど。

神が愛した人間存在を、その不完全さも含めて、わたくしはまぁ好きだなというか、小説読むみたいに人の不完全さが引き起こすあれこれを見ていると面白いといいますか。ただしまぁ直接的に相対するとムカツク事があるので、わたしも不完全故に、怒ったり罵倒したりしたくなるわけです。こいつ馬鹿じゃね?とか言ったりします。

とはいえ、そういう人間集団が2000年間ぶん詰まった教会というのは面白いなどと思うのでまぁ好きなんですよ。小説読むのも好きなんですが、つまるとこ人間存在が面白いとわたしなどは思ってるようです。絵も人間描くのが好きでそういうのばっかりだし。そこんとこは隣人愛とかそういうのではなく、なんというか、「面白いなぁ」的に好きというか。

論争し続けたり、喧嘩しあったり、対立する心理というのは、その人にとってなにか大切なものがあってそれを否定されることに腹を立てるとか、とにかく探求し続けたとこをくさされて腹立てるのも同じだし、説明はつかないけど大切ななにかをけなされれば腹立てるし、違う意見のものに対し意見表明したくなるしで、それぞれがなにかにたいし一生懸命に考えたりしているわけである。そういう一生懸命さをわたしは愛していたりするので、つーのも自分は一生懸命さがすこぶる足りないので、一生懸命な人がいるとそれだけですごいよとか尊敬してしまうんだが、とにかくそういう一生懸命な人たちを愛したいほどには隣人愛的なものは持ってるかも?などと思うのです。

2000年分の一生懸命を愛する。
ま、そんな感じ。

そういうわけで、まぁこういう教会内部の人々が争っていたりするとちょいと悲しくなる時はある。なんちゅうかそこまで相手を否定しなくてもいいじゃんとか思ったりする。ただこういう心理の理由は飽きっぽいんで怒りがそもそも持続しないからなんだが。怒り続けるというのは持久力を要するよな。対立し続けるにはそういう持久力を要する。

ただミサという神の神秘の分野においては、激しく対立しているもの同士でも、ミサの神秘を共有しているというシステムが教会にはあって、つまるとこ神から見るなら等しく、神の恩寵が与えられることになってる聖体システムがあるので、そこんトコで分裂せずにいられる。ただし聖体がもとで分裂したりすることはあるけどね。そういう場合は違う教派という立場に変容する。ローマ・カトリックという内部では聖体が一致していることになっている。

日本国でいえばなんだろうな。天皇制ってのはわりとそれに近かったのだが、そうではないと考える人もいるし、憲法もそうではないし、単に「日本という列島」という地域性でもないし、血でないことは確かだ。みんなが見ているテレビ様かもとか思うけど、わたしはテレビ見ないし。国家という幻想も色々だし。しかし、左翼も右翼も民族主義者も国際派も一致するそれがある気がするんだが、それはなんだろうな?と時々思う。どっかで合意してるなにかがある気がする。

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そいや、カトリックって教皇がいてヒエラルキアがあるとか、教皇の言うことは間違いが無いとか、そういう外部の人が考えてるイメージから、全体主義的かと思っちゃう人もいるかもしれない。だが上記にような有様を見ても判るように、皆が好き勝手にてんでんばらばらに色々主張していて喧嘩が絶えない。思想的には全然全体主義でない。単にあの世のことに関して合意してる他は、疑い深いのがいたり、批判ばっかしてるのがいたり、中央の言うこと聞きやしないのがいたり、民主主義国家における言論の自由的なのとたいして変わりがない。あの世的な部分に関しては、まぁ信じますよってだけのまとまりのない集団ではあるなぁ。

聖公会とかもそういう印象があるな。