マリアの名誉を巡る話 理性と信仰と

タマにはギョーカイネタでもしてみるのことよ
カトリックはマリア教などと揶揄されるほどにマリア様好きな人が結構多い。まぁ男はそこに母の原形を見るのかもしれないし、女は理想としての女性像を見るのかもしれない。わたくしはあまりそういう辺りが鈍いんでマリア崇敬的な精神を持ち合わせてはいない。マザコンでもなければ同性好きでもないし。
しかし、流石にマリア崇敬について他教派などからとやかく言われると余計なお世話だとかむかつくとか、天使祝詞の祈りは好きだとか程度にはカトリック的である。
神学レベルにおいてはいわんやである。マリアの位置づけがカトリックで重要なのは神学的に大変に複雑怪奇で三位一体論と切り離せないコムズな理屈がそこにあるんである。
そういうマリアについて、はてなブログで倫理神学者が書いたエントリがプチ炎上。
○J.マシア神父のブログ「手作りの考え方」
http://d.hatena.ne.jp/jmasia/20080716
使徒信条 -3-「主は聖霊によって人となり、乙女マリアから生まれた」

マシア師といえば泣く子も黙るイエズス会の重鎮であり、リベラルな立場の神学者であり、わたくしでも名前を聞いたことがあるよな高名な学者である。主に倫理神学をなさっておられると聞く。すでに高齢であろうが、教会での説教や使徒信条解説などを淡々とエントリなさっておられた。神父は説教や教理についての解説がお仕事なので、毎週毎週主日の聖書朗読個所の解説を考えねばいけないのだが、これが結構大変だなぁといつも思っていた。しかしネット時代。あちこちで、同じ聖書個所について神父が説教を書いていたり、教理についての解釈を書いていたりするので、色々なのが読めて面白いのである。

しかしマシア師が選んだブログははてなである。はてな村と言われ、ブクマとか、おとなり日記とか、キーワード検索とか、大衆に晒される率が高く、そしてぐぐるでもトップに上がりやすく、そういうわけでネットイナゴが集まりやすい他、炎上のリスクも多く、しかもモヒカン族が徘徊しているという、激しく危険に満ちあふれた紛争地帯のブログである。いささか危惧していた。

上記のエントリでは使徒信条の「乙女マリアから生まれ」についての解説なのだが、いいかげん俗にどっぷりで、不良信徒で、告解最後にしたのいつか判んなくなっちゃってるような人間でも一瞬引く話が挙げられていた。

マタイ福音書とルカ福音書におけるイエスの誕生物語は史的事実でもなければ、子供向けのおとぎばなしでもありません。それは信仰の立場からの創作です。

この話しを奇麗ごとにしてしまうと、マリアの妊娠は奇跡的な出来事であるかのように扱われ、イエスの誕生は例外的なことのように描かれてしまいます。

ん?非神話化か?!
それは逐語説を採択する教派だと怒髪天を衝く話ではあるが、カトリックの場合は逐語説は採らないまでも物語を読む時は創作として読まない場合もある。しかしまぁ確かに客観的にいうなれば聖書は事実と創作が混然とある。史学的に読むならばこのテキストは古代の神話を検証するに興味深い創作物であろうが、まぁ信仰者は、いろいろに読む。四種類の読みがあるといわれている。クワドリガと呼ばれるそれは「字義通りに読む」「寓喩的に読む」「転義的、或いは道徳的に読む」「神秘的に読む」といった区分けである。これらの異る立場からの解釈がしばしば対立することもあり、また聖書があまりに矛盾と曖昧さを抱え込んでいるために、これがまったく正しいのだという解釈は実はないといってもいい。読み手の限界性がそこに生じてしまう恐ろしい書物でもあるが、まぁそもそもが世の創作物そのものが作り手の意図からはずれまくって独り歩きしてしまう現象とか跡を絶たないわけで。そういうわけで教会などは一定の幅を持ったガイドラインを示していたりする。しかしその幅もまた結構広くはあるのだが。
で、信仰者にとって、聖書を読書するのは歴史的事実を云々するためではなく、信仰の為であるということは大前提であり、マシア師のこの文でもその原則は守られている。

さて、上記の解釈ではマリアの妊娠を巡るイエス生誕の物語を「奇跡的な出来事」であることとして批判的な立場をとっている。
聖者生誕にまつわるこうした奇跡的な物語は数多い。ブッダも厩戸の王子にもそういうのがある。そういう神話を描くことで、その存在を、通常の人間レベルから異る位置に持って行こうというのは人間の性なのであるが、イエスの物語もその例を外さない。しかし、教会の場合は既に堂々とイエスは神などとしているので、例外的になどと今更言うレベルでないぐらい例外的にしているんである。そしてそれを信仰告白している。それを踏まえた上で、この単元に先立って書かれたマシア師のイエスについてのエントリでは、イエス・キリストを信じるというのはどういうことか書かれている。
http://d.hatena.ne.jp/jmasia/20080715/1216153726
上記単元ではイエスが神であることになんの疑いもない態度が見て取れる。神のロゴスとしてのイエスというのは伝統的な教義の根幹である。無神論者からするならナニそれ?な話ではあるんだが、マシア師においてははイエスが神である事は前提である。

マリア生誕の単元はそれの続きではある。イエス・キリストという奇跡的な存在の生誕を奇跡的な物語で綴ることについては、マシア師はイエス・キリストの人性に着目していると取れるであろう。つまり人としてこられた神の生は人として来られたがゆえに、人としての生誕であった。つまり逆を言えばその奇跡性とは人類の生誕全てに存在するという話である。
ここでは非神話化的態度の読みが採択されている。

ま、普通に母親になったことがある人にとって子供の生誕はかなり神秘だろうなとは思うんで、この辺りの心理プロセスは判らなくもない。つまり人間という被造物は神の似姿を採っているとされるわけで、或いは森羅万象はことごとく神の創造物でもあり、そこには神存在の型が見られるという考えがあり、ゆえに人間の生誕そのものが既に神による神秘であるという考えは、よく判る。
ただ、わたくし的にはファンタジーが無くなっちゃうのはつまんないなぁとかいうレベルで、ここの個所はやはりありがちな聖者生誕神話であって欲しいもんである。わたくしのように俗でべたに生きてる人間にとっては、こういうファンタジーが糧になる時もあるのだ。ブルトマン君のいうことは面白いけど、でも神秘とか奇跡とか、でっかいファンタジー物語も取り上げないでよねみたいに。

これについてはマシア師のコメント欄で以下のように書いた。

◆このエントリ単元について
聖書解釈というのは様々で、百人いれば百人の解釈があり、ひとりの人間の人生の中でもその解釈についての響き方は違ってきます。若い頃に響いた解釈が今は響かないとか。
その解釈は、ブルトマン的な非神話的なものから、霊感逐語説まで様々です。カトリックにおいても解釈の幅は、カトリック教会が決定した秘跡使徒信条の範囲で解釈がされますがその幅は結構広いものがあります。わたくしなどは高校から大学と教会に対し反抗期でしたが、当時、マシア師のこの洞察ある単元に出会っていたら教会に対して反抗しなかったでしょうね。実際、今も理性的聖書解釈は素直に受け入れるようなところはあります。しかし最近はどちらかといえばわたしに足りない霊的なものについて考えているので、個人的にこの単元についてもちょいと異論を言いたくなっちゃう感じではあります。前にも書いたのですが、理論もへったくれも、身もふたもなく「奇跡はある」と言ってのけるシスターについつい済みませんといってしまう自分がいるといいますか。

こういう霊的な枯渇、信仰的なるものの枯渇か、理性的なるものの枯渇か、それは絶えず我々の中で交替しながら現れるものです。今、それが心に響かないことがあっても、いつかは響く時があるかもしれません。
その信仰と理性というバランスを、教会の胎内に持って来たのがカトリックです。それは素晴らしいと思います。

ま、わたくし個人はこんな風に考えてますよって事で。ひとつ。


・・で。物議を醸し出したのはこの話である↓

マタイ福音書に現れているように、ヨセフはイエスの遺伝の親ではありませんが、マリアの結婚についての歴史的事実まで私たちが遡ることができません。さまざまな伝承が伝えられております。ある伝承によるとマリアは性的虐待の被害者だったのではないかと言われていますが、それは確かめられません。しかし、そうだったとしても、イエスにおいて神が決定的に現れ、イエスこそ我々の間に現れた神ご自身であるという信仰を否定することにはなりません。かえって、どこに神が現れるのかということをますますはっきりと伝えられるようになるのです。

あああ。また出た。この「マリアがレイプされたよ」ネタってのは地雷。もうメガトン級爆弾の地雷。炎上しない方が不思議なネタである。
これは例えば「イエスの最期の試み」において、ニコラ・カザンツァキスがイエスが十字架上で悪魔に試みられ、その試みの渦中でイエスはマグダラと結婚し子まで為したとかいう話を書いてしまったがために正教会から追い出され、アメリカ映画になった時はプロテスタントをはじめとするクリスチャン達が上映反対のデモをした。とかそれぐらいの嫌悪を以てカトリック信徒には受け止められちゃうだろうなみたいな、それぐらい野地雷解釈である。以前、本田哲郎師がどこぞの講演でこの話をぶちかまし、ネット上で問題になったことがあったが。こんな地雷をあげれば怒り出す人々が登場するのは火を見るよりあきらかである。
確かにマリア生誕の物語は謎過ぎて、奇跡を排除しちゃったら、マリアはヨゼフ以外の誰かと婚前に性交渉したという話に行ってしまうのは当然である。ついでにブルトマン的に復活はなかったとか、カザンツァキスが悪魔が見せた妄想の中とはいえマグダラと結婚してたとか、恋人だったとか、そういうのも『ダヴィンチ・コード』ネタ的に起きてくるわけだが。つまり非神話化して見る場合、聖書の話は事実の提供があまりに少なく曖昧で、あとはそれぞれの妄想に頼るしかなくなる。かなり脆い物語になってしまうのである。
「マリアがレイプされた」というのは極端だが、「マリアには好いた男がいて泣く泣く別れさせられた」とかでもいいのになんでレイプ説なんだってあたりも疑問が起きなくはないが、性的被害者は己の意志がないが、好いた男説だとマリアは自らの意志で婚前交渉したことになってしまうからやばいのか。いずれにしてもそこを探求するはワイドショー的であり、レベルが低くて、ここで事実はどうであったかとか書いていてもなんだか嫌な気分になるだけである。
第一、その辺り、個人的にはどうでもいいやって気がしなくもない。史実がどっちでも、教会の伝承はそれ採択して来なかった。伝承を伝えようとした意志集団へのリスペクトから、わたくしは非神話化された上記のごとき話は信仰の上では採択はしない。教会の過去の多くの人々が信じようとした物語解釈で充分である。

マシア師の場合あくまでも一定保留を持った態度として話しているし、マシア師がその説を採択しているとはどこにも無く、話の流れの中で極端な説の例としてもって来たのではあろう。ある説があり、仮定としてその説をもとになにごとかを考えて見るならばという話である。正直、マシア師も生誕にまつわる真相など実は判らないとしか考えていない。しかしその引用があまりにもインパクトあり過ぎで、批判者はそこしか見られなくなってしまっている。持ち込むにしてもあまりよい例ではない。

こうした大衆の怒りを反知性主義と評する人もいるかもしれない。学説の上では確かに「なんでもあり」として素材を相対的に用いたりもすることはあるだろう。しかし語られる大衆の気持ちを斟酌しないというのは批判されても仕方はないかもとは正直に思う。概ねの信徒は素朴に信仰をしていて、カトリックの場合はマリア崇敬があるのでマリアに対し特別な思いを持っている人も多い。母的であり、理想女性であるそういう存在をワイドショー的な話でくさされれば面白くないのは当然である。わたくしはまぁ真面目ではないので、「マリアはレイプされたんだろ?」とか言われても、「ふーん。だからナニ?」で終わるのだが、そうでない人の方が多いであろう。隣人愛の実践を行いたいならまず持ち出さないことが賢明である自爆ネタだ。
ベネディクト16世イスラム教徒を怒らせてしまった発言も神学的文脈では確かに彼の引用はけしてイスラムを批判するのが目的ではなかったが、しかしイスラムの人々は引用された文とそれを引用したことのみに注目し、怒りの声を上げた。確かそのとばっちりで殺された聖職者がいたはずだ。この時も文脈を鑑みずに情報を流したマスメディアには怒りを覚えたものの、果たしてその引用が適切であったか?否か?というと、ただでさえイスラムの欧州に対する反感が高まっている中でのあの引用はあまりにも不適切というか脇が甘いなという感想を持った。
同じ構造がここにはあるようだ。理性的に仮説としてなにかを考えるならば、不適切と見える素材でも全体の意図が違うならば、全体の意図に注視すべきであるとは思うが、やはり不適切な素材が引き起こす破壊力はそうした意図すら吹き飛ばしてしまうために、どのように語るべきか?は推考された方がいいとは思うのである。

まぁ、信仰が絡む話は炎上しやすく、イエスなんかその炎上で死んだようなもんだし、教会史は炎上の歴史だし、宗教ってどうしようもないわけなんですが、かたや「理性」を常に言ってきたりもしていて、突っ走りがちな信仰性を理性が抑えるみたいな精神作用は常にしましょうよと。カトリック教会は、「信仰と理性」という言い方を伝統的に好みますが、よーするに突っ込みコビトを自分で持ってましょうということですな。

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マリアレイプ説についての報道と非クリスチャンの日本人の反応↓

▼マリアは処女ではない、で抗議殺到。 英
http://matinoakari.net/news/item_42778.html
聖母マリアは実はレイプ被害者だった」との説を紹介した英BBCのドキュメンタリー「処女マリア」に抗議電話が殺到。番組は22日に放送され、(1)マリアは貧しい無学な女性で、ローマ兵士にレイプされキリストを身ごもった(2)馬小屋で出産し3博士が立ち会ったとの聖書の記述は間違い−などの面白い説を映像で再現。

ローマ法王庁報道官はこの番組を「時々、浮上するばかげた話で、歴史の中で支持されなかった」と批判。しかし処女受胎説に異論があるのも事実で、英紙のアンケートでは英国教会の聖職者の27%が「認めない」と回答。BBC担当者は「微妙なテーマだが、われわれは番組を支持する。マリアは好意的に描写されていると思う」 としている。

バチカン報道官曰く「時々浮上するばかげた説」だそうですので、一応カトリックの原則はそういう態度であることに留意。
コメント欄も読んで見てくらはいです。

こういう説で映画作った人もいたらしいよ↓

▼CJC通信◎「氷の微笑」のポール・バーホーベン監督がキリスト伝を出版
◎「氷の微笑」のポール・バーホーベン監督がキリスト伝を出版
http://blog.livedoor.jp/cjcpress/archives/2008-04.html
 【CJC=東京】オランダ出身で、「氷の微笑」「ショーガール」などの作品で知られるポール・バーホーベン監督が、20年以上の研究をもとに執筆したイエス・キリストの伝記を9月にアムステルダムのムーレンホフ社から出版することが4月23日明らかになった。同社では、2009年に英語版出版を目指し交渉中だという。
 イエスは、母マリアがガリラヤでローマ人の兵士にレイプされて身ごもった子だという説を、カトリックの同監督は唱えている。また、ユダはキリストを裏切ってなどいないとも主張する。
 ただ米カトリック系のフォーダム大学大学院のカーク・ビンガマン教授は同監督の主張は別に目新しいものではない、と言う。
 7月に70歳の誕生日を迎えるバーホーベン監督はライデン大学で数学と哲学博士号を取得している。キリストが起こしたとされる奇跡を疑問視していた、米国の聖書学者故ロバート・W・ファンクが開催するイエスセミナーの常連でもあった。

こういうのが時々出てくるから、「そういう説があるようだが・・」という話をしたくなるのも判らなくもないが。うーん。

聖書学者のマルクス博士ならなんというかな?最近、ヴァメーシュとかいう人の復活論ずっと連載中ですが、人気がないとかで寂しく腐っていて気の毒なり。

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関連エントリ書いた
http://d.hatena.ne.jp/antonian/20080813/1218602214
■[カトリック]我なにゆえに教会を信ずるか