『綿の国星』大島弓子 自由と不自由 思春期世界

美大の学生には色々なのがいる。教えられ上手と下手なのと、コミュニケーション不全なのとか、やたら人懐こいのとか。美術やる人間というのはどっかでナニかが欠けてたりするのも多いので、その振幅幅が大きかったりする。

最近ふと大島弓子の『綿の国星』が読みたくなっていて、捜していたのだがようやく見つけて読んだ。

綿の国星 (第1巻) (白泉社文庫)

綿の国星 (第1巻) (白泉社文庫)

懐かしい漫画である。大島弓子の漫画はほとんど持っていたのだが、何故か家にほとんど残っていない。兄貴が持って行ったか妹が持って行ったかどっちかだとは思うけれど、とにかく我が家で人気がある漫画家だった。『綿の国星』はその中でも特に評価の高い漫画で、それもいつの間にか私の目の前からなくなっていた。

この漫画に出会ったのはたしか高校生のときで、しかし何故か男子ヲタ系に人気になっていたり、主人公が猫耳をつけているとかで、「大島弓子的でない」と妙に反発してしばらく読んでいなかった。猫をとりわけ愛着する人間というのが嫌いだった性もある。今は小さげな犬ブームで犬執着の方が目立つが、昔はそのペット執着エネルギーな人々は何故かほとんど猫に向いていて、その猫偏執状態ってのを激しく気持ちが悪いと思っていたからだ。猫グッズ集めたりとか、野良猫を見かけると猫なで声で寄っていったり、キモいんだよ。的に。故に猫が人間の姿をして描かれている漫画なんぞはそういう猫オタを集めそうで気持ち悪そうだと、食わず嫌いだった。

しかし、大島弓子である。面白くないわけがない。そういうわけで、大島ブランドに負けて読んでしまった。そして好きになった。

今、改めて読んでみて気付いたのだが、どうも当時に比べて読後感が悪い。居心地が悪いというか、痛くて辛い。何故だろうか。当時あれほど心に響いたと思った漫画を、今の私は、不協和音を感じながら読んでしまう。

須和野チビ猫は自由な猫である。飼い猫でありながら自由に世界を行き来している。そしてあらゆる価値観に自由な目で世界を見る。チビ猫にとっての世界は全てがはじめて出会うような歓びに満ちている。反面、チビ猫の出会う人間や猫たちはナニかに囚われていて不自由な存在であったりする。コミュニケーションをうまくとれないような人間、こだわりを棄てきれず悩み続ける猫。チビ猫と比して、不自由で不器用なのが多い。これはこの漫画に限らず、大島弓子の漫画全般のテーマでもあり、自分自身を持て余しどうしていいか判らないような主人公が悩むようなのが多い。

二十歳前の学生を見ていると、自分自身がどうしたいか説明できないのとか、話しかけられたり指導されることに異常に武装する学生とか、不器用な生き方してるんだろうな〜というのがタマにいる。自分が何をどうしたいのか説明できない学生はただ馬鹿なのか?とか、針のように「先生」という存在に武装してしまうような構える学生とか、自意識過剰だな〜などと、ついつい思ってしまうが、実はそれは自分が通ってきた道でもあったなぁと、なんとなく大島弓子の漫画を読んで懐かしく思った。

少女期、青年期というのは不器用なもんだ。自我だけは肥大しているが、現実ってのはその自我は数多の中の一つに過ぎない。数多の中の一つだからこそ逆に「尚、愛おしい」的な平安な気持ちに達観するには紆余曲折が必要だったりする。不器用な自分を持て余しながら不器用に生きて、自分を嫌いになりながら、自分を愛して欲しいと激しく揺れ動きながらぶつかっていく果てに、掴み取ったりできるものであったり。

そういう多感な時期に読んだ大島弓子の漫画は、うまく世の中とやれない自分にとっての救いでもあったかもしれない。同伴者として主人公達、あるいは登場人物たちがいた。

今となっては、その世界は遥か遠い世界になってしまったが、あの多感で針のように武装したくなるような、あるいはちょいとしたことで傷ついてしまうような、そんなガラスな自分というのを失ってしまったのも、実はこれまた寂しかったりもする。特に芸術世界には必要な感性なんで、学生のガラスっぷりはだから重要だったりもするんだが・・・・じじいみたいに頑固なのだけはなおして欲しいなぁ。。と密かに思ってしまうのだ。

綿の国星』が読みづらい漫画になったとき、大人になるのか・・・・。
妙に「大人になるってやぁね。」な気分になった夜であった。