『テンペスト』『奄美自立論』奄美と沖縄、琉球弧という「周縁」の世界における相違

先日こんな記事をブクマした。

○台湾は日本の生命線
http://mamoretaiwan.blog100.fc2.com/blog-entry-716.html
■ 証言の「断片」のみ放映―台湾の被取材者が怒る反日番組「NHKスペシャル/シリーズ・JAPANデビュー」

台湾を応援しているようでその実ブログタイトルが全てを物語ってしまっているというあたりで苦笑せざるを得ない。私も中国様は恐いし台湾は応援したいが「日本の盾だから大事にする」ってのはどうよ?と指摘しておきたい。そういう思想をぬけぬけと開陳してい方の記事ですから、まぁ押して知るべし。故に割り引いて読んで欲しい。

個人的にはNHKが「描きたい絵の為に」発話者の真意を上手く汲み取ることが出来ないような番組を作っていたらしいという告発には「まぁそういうことはあるだろうな」と思いつつも実は興味がない。しかしブログ主である永山氏が拾ったテレビで流れた台湾人柯徳三氏の「言葉」、永山氏が柯徳三氏に直接インタビューして記載したテレビで語られなかった「言葉」。これは中国と日本という大国の狭間で生き延びてきた台湾島という島人の歴史証言であり、そこには琉球弧の島人達が抱えるアンビバレントな思いと共通の絵があることに気がつく。

「沖縄」と「奄美」。日本の南洋に浮かぶこれらの島々はひと括りでは語れない個々の島の歴史がある。しかし琉球弧という括りでは中国、ヤマト(薩摩)或いは日本、アメリカ・・といった大国に翻弄されてきた歴史がある。その狭間で逞しくも生き延びても来たが容易く利用されてもきた。
更に、今日「沖縄問題」として南洋の島々の問題は語られるが、奄美という領域では、沖縄=琉球ではない独自の悲劇を抱えている。琉球もまた奄美にとっては支配者であった。そして沖縄は日本の隷属国であったが、奄美は薩摩の「植民地」であった。

そんな琉球弧の南西諸島関連の書の書評。



■『テンペスト池上永一 一流で三流な琉球王朝伝奇小説 

テンペスト 上 若夏の巻

テンペスト 上 若夏の巻

真鶴はかつて「琉球」という王国をまとめた尚氏の子孫である。父の王家再建の夢よりは琉球王室を助けたいという志を持ち、琉球王室が主催する官吏登用試験に「宦官」と偽って臨み、みごとに王室勤務となる。王室では13歳という最年少の役人である。しかし大人顔負けの辣腕ぶりで活躍する。当時の琉球王室は薩摩と清という二つの支配者の狭間にあって綱渡り外交を続けていた。琉球王室も一枚岩ではなく、清とヤマトの二つの宗主国の思惑によって、真鶴の運命もいいように翻弄される。

シャングリ・ラ』ですこぶる懲りた私は、これを読もうかどうか迷っていた。しかし琉球王室を舞台とした歴史小説。そして何故かなんとか大賞をとったとか、誰それが推薦しているとか、評判がよさげな言葉が周辺に踊っているので、もしかしたら・・と淡い期待を抱いて読むことにした。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・漫画だった。

相変わらず、しょんべんくさい超天才美少女が八面六臂の活躍する。というだけの話。上下2巻でしかも二段組というくそ長いこの歴史大河小説はその一言で済ませたくなるほどの三流の小説であった。しかしその駄作に上下巻付合うことが出来るのはこの著者の一流の道具立てである。正直、琉球王室末期の世界をここまで自然に扱える力量には舌を巻く。著者はもともと「沖縄」出身(と言っても先島諸島である石垣だそうだ)沖縄固有の文化は身近なものである。しかし身近だとてけして身近ではないであろう、既に今は無き琉球王朝の絢爛さをリアルに再現する。その腕は素晴らしい。

つまり何故三流小説にしかならないと感じてしまうのかというと、単に人物描写が下手くそだからである。人物設定が下手というか漫画である。(しかし漫画でも深みのあるのもあるからなぁ)とにかくさらっと流す漫画なら受け付けるであろう描写も文字になってしまうとこの人物像は陳腐このうえない。
これは『シャングリ・ラ』にもあった欠点で、舞台、世界観、発想・・どれも素晴らしいのに、登場人物が漫画的セリフを吐き、行動し(しかも死なず)とにかくどいつもこいつも人間味が超軽すぎて、池上がせっかく設定した深みのある世界観を池上自身が台なしにしているのである。この極端なアンバランスさが池上永一という作家の個性なんだろうが。

昨年、東京創元社の編集と話していて、昨今の日本の小説はどうも漫画的でいかん。吉本ばなな辺りからどうも読めなくなった。結局、海外モノばかり手に取る羽目になる。漫画やアニメで育った世代の欠点かのう。という愚痴ったれをしていた。編集さんは海外モノも今やそういうのが多く、アニメ的な小説が増えてきて深みのあるのが減ってきたとぼやいていた。うーむ。世界規模でジャパニメーションが文化破壊をしているのか?アニメはアニメで素晴らしいし日本が誇っていい文化ではあるが、選択肢が無くなっていくのは困る。

しかし、池上が描く「琉球」は生々しく、そこには力がある。

琉球は大国によって引き裂かれ滅亡した王国である。その断末魔の世界がよく描けているとは思う。沖縄を知るにはいい書だろうなとは思った。我々は沖縄問題は知っているが、その歴史は抽象的な概念でしか知らない遠い世界のように思える。池永はそれを身近に感じるように描いて見せる。この書の真髄は寧ろそこにあるだろうとは思う。

琉球は近代によって王を失った。王室は琉球にとっての精神の文化的支柱でもあった。その王を失い国家を失っても「国土は残る」という真鶴の言葉は、封建的な王国も、近代の抽象的な「国家」概念も土に返す。たとえ主が替わろうと、沖縄自身は沖縄である。それは琉球支配下八重山が同じように八重山であろうとしているのと同じでもある。島という宇宙が持つ完結せる世界のアイディンテティというのは強烈だなと思う時はある。




■『奄美自立論』喜山荘一 琉球でもなく大和でもない、外部からは疎外された存在である自立する「奄美 」

琉球王室を歴史に持つ「沖縄」と違い、奄美はまた独特の歴史を経験してきた。
上記の『テンペスト』には先島は出てくるが、奄美は出てこない。ほんの一言少し出て来る程度で、池上の視線に奄美はない。

琉球文化にありながら琉球ではない奄美は、沖縄問題でも語られる事はない。おまけ程度に少し出てくるが、実は沖縄以上に過酷な経験をしている。奄美には池上が描くようなきらびやかな物語は紡げない。そこには何百年にも渡って奪われ続けた歴史があるだけである。まさに沖縄以上に踏みにじられた島である。それについて掛れた好著が少し前に出版された。

奄美自立論 四百年の失語を越えて

奄美自立論 四百年の失語を越えて

著者、喜山さんは島人である。島仲間としてわたくしもお付き合いいただいているが、彼は島んちゅで、島には沢山の喜山さんがいる。御親戚に知り合いが多く、初めてお会いした時にはじめてという感じがしなかった。その彼がずっとブログで書きためてきたテーマを一冊の本にした。先月それを送ってくださった。書評をアップしたいと思いつつ平行して色々読んでいたので遅くなった。
与論島クオリア
http://manyu.cocolog-nifty.com/yunnu/

奄美の歴史を知る者は少ないと思う。
琉球王国が出来るまで、沖縄も奄美も群雄が割拠するというか、それぞれの島に按司がいて支配するというそれぞれ世界であった。琉球が尚氏によって統一され、沖縄北山の領土であった沖永良部と与論は自動的に琉球王の支配下になったが、奄美大島は自立していた。15世紀琉球王の侵略によって制圧された。しかし奄美は度々叛乱を起こしたようで常に警戒されていたようだ。

17世紀。幕府は明貿易によって栄えている琉球に目をつける。明との貿易の基地としての沖縄は魅力的でもあり島津に琉球侵略を命じた。侵略の結果、与論島以北の奄美諸島を沖縄から分断。琉球王国はこの時から薩摩と明、清という二つの主を抱きながら外交していく事になる。そして奄美諸島は薩摩の植民地として地獄の時代を迎える事になる。まさに国家の狭間で売り渡された島の悲劇である。

薩摩の植民地政策の記録を喜山氏は丹念に様々な資料から拾い集めている。それを見ると薩摩のやり口は[これはひどい]タグを付けたくなるような代物であった。ヤマトに併呑しながら、ヤマトであることを赦さず、琉球との交流も禁じる。ただの琉球王国との分断政策だけではない、日本に帰属することも赦さなかった。奄美はただ薩摩に金をもたらす砂糖プランテーションの奴隷として必要であったのだ。さらに薩摩はこの支配を幕府から隠したかった。いい金づるをボスに取り上げられたくないというヤツですな。難破船、漂流民が流れつきやすい島嶼で、ヤマト化させれば支配している事がばれてしまう。ゆえに、島民には琉球の衣装を身に着けることを命じ、ヤマトの衣装を禁じた。
また自給出来ないただ産業物に過ぎない砂糖だけを作らせ、それを相場の5分の一ぐらいの値段で買いたたき、必要な日用品を高い値で売りつけるという阿漕っぷりである。台風でキビがやられれば飢饉に陥る。しかも四方が海なので逃げ出すことも出来ない。

これによって奄美の島民は疲弊していく。役人は実情を知らないので怠けがちな南方民程度の認識で赴任して来るのだが、島民のあまりの過酷さに驚いたようだ。心ある役人のなかには改善を願うものもあったが却下された。九州というと甘い味噌、甘いお菓子などが名産だが、それらは奄美という「奴隷」によって支えられていた文化だったのである。昨年は『篤姫』だかいう大河ドラマが人気があったようだが、こういう歴史を知っているので見る気も起きなかったし、あの絢爛さは奄美奴隷によってもたらされたものである。

明治になって薩摩はいなくなった。その代わりに本土の企業が奄美を支配することになり、搾取の構造は結局変わることが無かった。日本国民であるはずなのだが、本土では差別を受けた。鹿児島のお年寄りは今も島人に対し差別意識が残っているらしい。田舎もんが自分より田舎もんを馬鹿にしていると散人先生が笑いそうな光景だ。沖縄や奄美の人々は言葉が違う。風貌が違うということで差別を受けた。

奄美アメリカ支配を受けていたのは知っている人も多いだろう。沖縄に先駆けて奄美は返還された。アメリカは沖縄本土にしか投資をせず、周辺離島は困窮していた。「日本」に戻りたいと願ったのは、沖縄以上に強かった。

奄美が産業として自立出来る支援措置としての奄美振興政策の構図でも奄美は本土業者によって搾取される構図になっていた。産業といっても土建の下請けであり、海岸には無残なコンクリ護岸工事のツメ跡だけが残る。無意味な工事だけが存在し、永続的に金を生み出す産業の振興をするべきであるのに、日本の公共事業の気が狂ったような政策の悪弊は奄美の自然を破壊した。依存型の産業では自立にはならない。

かくのごとき歴史のなかで翻弄される奄美を描き出したのが本書であり、「奄美」にとって「日本」とはなんだろうか?という問いかけが本書である。
本書で繰り返される「沖縄ではない。大和ではない」というフレーズは、奄美群島それぞれの立ち位置は結局「島」という個に帰していく。『テンペスト』で真鶴が「国土」と呼ぶ「島」に帰されていくのである。

奄美は語られる事が少ない。と喜山さんは書く。
沖縄問題が好きな世の中の左翼も奄美はスルーである。大好きな「植民地」ネタがそこにあるにも関わらず。奄美群島出身の右派の政治家だけが奄美を思っていた。だから奄美群島は自民が強いのである。それは結局島の事は島の人が面倒見るしかなかった結果でもあり、奄美はそれぐらい失語していたのである。

因みに奄美群島の一員である与論島はすごく小さいので島津の琉球侵攻の時もスルーされたようだ。沖永良部での闘いのあと、沖縄北部に行ってる。奄美を語る時でも与論は疎外されることがある。どさくさに紛れてオマケ扱いみたいな島。それぐらいちっぽけなので、なんというかまさしくキングオブ周縁である。著者、喜山さんはそのような土地からの発信者である。しかし「周縁」に住む人々の言葉は普遍に訴えかける強いものがある。喜山氏が投げ掛ける問いは村上春樹の「壁と卵」の喩えにも通じるものがある。

語らなかった島からの言葉。こうした書が出るのは喜ばしいことである。

ただの旅んちゅにしかすぎない私も、奄美群島は既に大切な存在になりつつある。ゆえに発話出来るときは発話していきたいと思う。それぐらいしか出来ないのだが。