『百万遍』花村萬月 アウトローな花村の自伝小説

花村萬月が自伝小説を出してたってんで読んでみようと読んだ。

百万遍 青の時代〈上〉 (新潮文庫)

百万遍 青の時代〈上〉 (新潮文庫)

百万遍 青の時代〈下〉 (新潮文庫)

百万遍 青の時代〈下〉 (新潮文庫)

百万遍」というと京都の地名だ。祖母の家から親戚の家に行くのに乗った市電が何時もここを通っていた。でもこの小説には全然出てこない。なんでだ?というと、これには続編があって「青の時代」はその第一部。第二部の「古都恋情」で京都に行くらしいよ。しかし花村の見ていた地帯と私の見ていた地帯は重なってるなぁ。多摩川と京都。

百万遍ー青の時代」は主人公惟朔が、高校と養護施設から追い出される所から始まる。社会という世間に出て、学歴もなく後ろ盾もない彼はアウトローな世界で生きるしかなかった。

自伝というだけに花村と当然重なるわけだが、彼の小説のみチーフの原点というかそのままだったんだな〜というか、まぁ当然小説家ゆえにフィクションを入れて入るだろうけれど、にしても壮絶な人生である。

幼い頃、明治生まれの、都市が激しく離れた知識人ではあるがぶっ壊れた父に育てられた。山谷の貧困生活、そして公営住宅へと家族と移り住む。父はその花村に英才教育を授けようと、小学生という年齢に関わらず新潮文庫岩波文庫のコムズな本を読ませたらしい。その性で早々と「人生」についてどこか老成してしまったようだ。別の短編集で父の最後を書いたものがあったが、その壮絶な父の死を見つめたことも、彼が「人の普通に生きること」への醒めた距離感を与えてしまったのかもしれない。

父の死後、どうにも手をつけられない悪がきになってしまった彼は、カトリックの養護施設に入れられる。その施設の援助で学校に通い続け、高校まで行くのだが暴力事件を起して自主退学させられてしまう。もとより、小学校も中学もまともに通ってはいなかったようだ。

IQ200近い、老成した悪がきほど扱いが難しいものはなかったかもしれない。

施設でも愛想をつかされ、追い出された彼がはじめに頼ったのは、小学校時代の同級生の女の子のところだった。在日朝鮮人である彼女との同棲生活が始める。しかしその彼女の痛々しいまでのけなげな献身に重さを感じたのか、彼女を棄てて出奔してしまう。まったくもってどうしようもない男である。
次に頼ったのはかつての施設仲間であった。そしてそのつながりで、破壊的なヤクザ、思慕を覚えるヤクザの組長の情夫、ヤクの密売人、サドマゾのケのある女の子、とにかく風呂に入ってるんだか解らんバイト男性とか、自堕落すぎてとんでもないばっちい、所謂「おさせ(ヤリマン)」な女性とか、破壊的で刹那的なとんでもない底辺のアウトローな人々が蠢く中を、どこか覚めた目と、年齢的な衝動とが、自分の中でバランス悪くせめぎあう惟朔は漂い続ける。

まぁ、読んでいて「ほんとか?」と思いつつも、そういえば60年代、70年代というのは、ナニかこういう空気ってあった気がする。
たとえば流しの写真屋渡辺克巳はそういうアウトローの人々をとり続けていた。

この写真集は新宿に蠢くアウトローな人々の記録だ。花村の生きた世界と重なるような人の世界。ただ、昔のこのアウトロー世界ってのは、どこかのんびり感もあった気がする。どうなんだろう?
そういえば子供の頃『傷だらけの天使』というドラマが激しく好きだったんだが、探偵に雇われているチンピラ二人のドラマは物悲しくて、そういう世界観をつい見たくなるのは筋金入りなのか、花村の描く世界に惹かれるのもそういうのと同じではある。どん底でありながら尊厳を持ち続ける人々というのにどこか魅かれるのだ。
それは花村が時折書くイエス像にも重なる。
傷だらけで、十字架につけられて苦しむイエス。中学にもそんな像がいたるところにあったが、身をよじって十字架に張り付いたみすぼらしい男の像は、なにか思春期のわたくしには親近感があるものだった。「青い」というのはそういうところに寄り添いたくなる。そういう孤独の時代でもあったりする。
現代のカトリックはそういう像をどうも嫌がり、イエス像の原型を復活の喜びを表すイエス像へと変容させていこうとする。んだが、そういうのは見つめなくてはいけないものから目を背けているような気がしなくもない。どうなんだろう?

ところで、彼が生息していた登戸という、多摩川繋がりの土地の雰囲気とか、田園都市線南武線沿線、世田谷や川崎の描写など懐かしく、「ああ。そういやそんな鄙びたしょうもないところだったなぁ・・」と思いだしたりもしました。二子玉川って今でこそ高島屋なんぞ建って気取ってるが、昔は救いがたく田舎臭かったな〜とか。

過去を懐かしみよかったというのは年寄り臭くなった証拠だが、まぁもう年齢が年齢だし、振り返って懐かしんでみますよ。そういうわけでガキの頃に見ていた祖母の住む京都を書いた続編も読まないとね。

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ところで、主人公が修道会の養護院を追い出された最後の院長との会話はすごいな。リトアニアの亡命者で迫害経験のある院長がその過去を彼に語る。その話に答えず、彼は院長が所属する修道会の黒い過去を暴いた松本清張の『黒い福音』で得た知識をぶつける。
いやはや、ここで普通の人間なら怒ると思うが・・・当然、まぁ聖職者といえど人間である。院長は怒ってしまう。
主人公はあきらかに断絶を求めてその行動に出たのだろう。確信犯である。それは母が買ってくれたギターを壊すのと同じ行為であり、同棲していた幸子との別れの際に預金通帳を持ち出し、全額引き落として棄ててしまうのと同じでもあり、壊滅的な破壊をすることで、過去を断ち切るその破壊衝動は、愚かでもあり、そして実のところ、どこかで解らなくもない心理ではある。