『外道の群れ―責め絵師・伊藤晴雨伝』団鬼六 アウトローの浪漫

昨日、伊藤晴雨のことをチラッと書いたので、ちゃんと紹介しておきます。
伊藤晴雨は明治15年に生まれた絵師で、最後の浮世絵師などといわれています。但しその絵面は「責め絵」と呼ばれる縛り絵、つまりSMな鬼畜なものや、幽霊画など、よーするにキモイ系。アングラ系の変態絵描き。なので、官憲に睨まれ、彼の画本は発禁処分を受けたり、逮捕されたりなどの経験も多数。
しかし、ただ漫然とかような題材を描くではなく、江戸風俗を研究し、時代考証を行ったうえで描いているので、後年様々な文化人が彼を評価していたりします。ただ、絵そのものはそれなりに達者ではあるが芸術的には首をかしげるようなシロモノではありますね。

晴雨はそうした画業だけではなくその生き様に於いてなかなか面白い人で、モデルを用いて責め絵を描いているのですが、そのモデルとなった女性と愛人関係を結ぶも棄てられたり、縛られるのが好きな女性じゃないと萌えないので、はじめの女房はそこが嫌だったとか、まぁ、女性の好みが完全に受け体質じゃないと駄目だったようです。そういうわけで女性遍歴も色々あったようでいやはや。
有名なのは竹久夢二の妻となった「お葉」。このモデルの女性を夢二に盗られてしばらくは腐っていたようです。

伊藤晴雨については稀代の官能小説家、団鬼六が書いているのでそれ読むのが一番いいですね。これ↓

外道の群れ―責め絵師・伊藤晴雨伝 (幻冬舎アウトロー文庫)

外道の群れ―責め絵師・伊藤晴雨伝 (幻冬舎アウトロー文庫)

以下は団鬼六のこの書の書評。

団鬼六というと官能小説家で、鬼畜なポルノ小説を描いている変な助平親父というイメージが先行しているが、実は小説家としては大層に筆の立つ作家で、人間の情の機微を書かせるに大層巧く、また江戸から続く伝統の「粋」というものを知っている洒脱な印象がある。

この書では伊藤晴雨というこれまた鬼畜な画家を題材にし、彼を取り巻く外道な人々の群像を書いているのだが、これがともすると淫猥などろどろとした方向へと向きそうであるに関わらず、彼らの「情」の襞を書ききることで、なんとも読後、爽やかさを感じさせる辺り、鬼六の持つ視点の、人間へのまなざしがすこぶる優しく、そして彼自身の人としての気宇壮大さにあらためて感じ入る。そして団鬼六とはなんとまぁまっとうな感覚を持った常識人だと、思い知った次第。鬼畜な性に魅かれながらも、人としての根本がまっとうだというか。己の立つ軸がはっきりとしている。

ここに書かれた男や女達。彼らもまた性愛に於いて外道でありながら、生き様として真摯である。純だといってもいい。松井須磨子の自殺を聞いて酩酊たり狂態を演じる男たちの様をかくことで、外道の男たちの純な様を書き出している。伊藤晴雨に到っては、飄々とした男として書かれ、その情けなさも含めた男としての魅力を感じさせる。その反面、伊藤が嫉妬を燃やす当時の人気画家竹久夢二の方がどこか病的である。素直に外道な伊藤と比して、歪んだ外道な竹久という按配か。

事実はどうかはしらぬが、正直、竹久夢二の絵は好きではなく、あの絵を男が描いていると思うとどうもゆがみを感じざるを得なかったのだが。しかし鬼六は、そんな竹久に向けるまなざしも優しい。男を知り尽くした作家なのだろう。

画家の世界もまた外道集団なので、こうした団や伊藤の世界はよく解る。女にはだらしないがどこか純な奴等が多かったなぁと、改めて過去の友人たちの顔を思い出したりもする。

しかし、団のように「人間」を描ききるような力量を持った作家が少なくなったような気がする。地べたを這い蹲ってなお生きたいとするようなそんな生。もっともそれに肉薄するかなと思えるのは花村満月だが、なんだか彼の文体は鬼六のような洒脱さには欠ける。好きな作家ではあるが時々文章が荒れる。この差異は文章力というより、花村が外道渦中にあろうとする人であるが、鬼六の場合は渦中にありながらどこかで醒めている目を持っているからかもしれない。

ところで、団鬼六は現在腎不全かなんかで大層体が悪いらしい。人工透析を拒否したとか新聞ネタにされていたが、なんと彼は「ルルドの水」を飲んでいるらしい。人工透析を拒絶する彼に説得に当たった医師に対し、「ルルドの水飲んでますから」と言って呆れさせたらしいです。別にカトリック信心はない人だと思うが、その組み合わせがなんだか面白いと思った。
(因みに花村はカトリック教育を受けたので骨の髄までカトリックの考え方があることをあちこちで吐露している。)