『沖縄を撃つ』花村萬月 花村流沖縄案内

先日、団鬼六を取り上げたんで、今度は花村満月ね。外道小説家第二弾。

沖縄を撃つ! (集英社新書 415D)

沖縄を撃つ! (集英社新書 415D)

集英社から送られた来た本雑誌「青春と読書」に花村が沖縄書いた広告がでてて買ったのです。なんせ広告文に・・・

内容紹介
作家・花村萬月が、日本人と沖縄人の共犯関係で出来上がった「癒しの島」幻想を徹底的に解体しながら、既存のイメージとはまったく違った沖縄の姿を克明に描き出す。日本人であることの加害者性を露悪的なまでに引き受けたその眼差しは、南の島を過剰に持ち上げたり、そこに逃避したりする日本人と、純朴な仮面を自ら進んで被ろうとする沖縄人に対しても、等しく冷淡であり、かつ挑発的である。二〇年以上にわたって沖縄取材を繰り広げてきた小説家による、もっとも苛烈で真摯な沖縄論。

・・・などと書いてあるんで「こいつは読まないと」と、書店で買いましたよ。

花村というのはこの文書にもあるように露悪的な作家で、その露悪さはかつて彼が芥川賞を取った『ゲルマニウムの夜』の頃に書いていた幾つかの、比較的大衆小説な分類の小説群でも遺憾なく発せられていて、一時期大量に読んではいたが、何時しか読まなくなっていた。どうも何冊も続けて読むとその露悪的な部分にうんざりさせられてしまう。

読書好きの友人曰く「花村のは説教臭い」と言ってたが、どうも所謂「教養」というか知という部分に脆弱だというんである。掘り下げていく部分が少ないというか、わたくし的には頭で考えるより身体で考える経験知タイプの作家だからだと思うのだが、その経験知タイプゆえの限界性を感じるときがあるのだろう。しかし、花村自身述懐しているように、所謂インテリ的なものを、相対化して訳知りに語るような態度を嫌うので仕方がない。だからこそ面白い部分がある。

このエッセイ集はそういう花村の経験を元に語られたものの集合体で、団鬼六の襟を正したような文章に比して言えば、荒削りであり、そして気分屋的で、落ち着かず、激しく饒舌である。しかし、それゆえに花村の描く「沖縄」はあの沖縄の持つ固有の光景としてリアリティを感じる。

集英社のお題目はかなり立派だが、要するに、暴走族がつるんで走ってるスポットとか、チョンの間案内とか、ソープ案内とか、変な鍾乳洞とか、沖縄の人にとってはあんまり大きな声でお勧めできないというか、恥ずかしいっすなものばかり集めて書いてるガイド本という按配で、まぁ東京は寂れた郊外の街のソープ街なんかをうろうろする感覚で沖縄で過ごしている花村ってのが、なんとも面白いというか「その視点で沖縄見るとこうなるんだな」と、そういう意味で激しく面白かった。

「そういうはずれて草臥れた夜の街ばかりが沖縄ではないし、それにリアリティを感じるなんていうな」と言われては困るが、ナニもそれそのものが沖縄といっているわけでなく、そのうら寂しい物語から透けて見える感覚的なものが、沖縄のおかれている立場であり、そのことを忘れるなということを花村はこの書で語る。イデオローグ的な沖縄ナショナルなものとか、左翼さんたちの言うような沖縄とか、ロハスだかスローライフだか、ちゃらいような感覚で語られる沖縄とか、「癒しの島」沖縄とか、そういうのはいい加減にしろよな怒りを花村はここで発出させている。

そう言うのはなんとなくわかる。たびんちゅである私には島の痛みは判らない。ということは常々感じているが、島が見棄てられているなと思う日常には度々出くわす。そういうのは夜の娯楽としての場末のスナックでの光景なんぞに出くわしてそのうら寂しさに身を置いたときにも感じるかもしれない。

東京にいて、どんどんと変容する光景。全てが大資本に管理されたような店になっていく銀座の通りの、作られた、借り物の、地に足のつかない、つまり伝承(レジェンダ)無き光景へと変容していくのを目の当たりにすると、沖縄のそれはそれでも沖縄のものであり、生きている街だともいえる。銀座は今死につつある。どんどんとデジタル化された肉体へと変容しているような、そんな街になりつつある。綺麗だけど、なんだか歩いていて面白くなくなった。

横尾忠則の作品「Y字路」のシリーズは、街のなんの変哲もない光景を書いている。それも美しくもないありきたりの街の。しかし秩序なく作られていった、自然発生的な街のその光景は、その町の「レジェンダ」である。例えば新宿南口にあったあのバラック街が消えたときは、新宿の一部が死んだように思えた。無名の多くの人がそこに棲息してきた痕跡が残る街というのは、呼吸がある。生き物のようでもあり、だから横尾の作品は無機質なものを描きながら有機的な呼吸を感じる。

そういう沖縄の有機的なもの、それも沖縄の臓腑(はらわた)を曝け出して書こうというのは露悪的ではあるが、面白くもある。ただし、沖縄という街を知ってないとつまらないかもです。かつての沖縄の町というか。秩序なく作られていた、だらけきった鄙びた空気も今、徐々になくなりつつある。だからこの書はそういうものへの鎮魂歌的でもあるなとは思うけど。

これも読んで欲しいらしい↓

虹列車・雛列車 (集英社文庫)

虹列車・雛列車 (集英社文庫)

一応小説?
沖縄関連の話が出てくる。昔お世話になった編集者の名が実名で出ていたので笑えました。
面白い構成。いけてますよ。




◆◆◆

ところで、花村萬月は本人の申告によるとカトリック信者だそうで、たしかに遠藤周作的な露悪的な感覚がある。カトリック文学にはこういう要素があるなと常々思う。私的にはすごく腑に落ちる。自分自身を含めた人間のもっとも醜悪なる部分、もっとも弱い部分を見るという、そういう思考があるなと。そここそがまさにリアルなもので、そして相対していかないといかんのだろうと思ってしまう性癖といいますか。
本田哲郎神父などもその一人かもです。彼は文学者だったらよかったのに。

で、花村に関しては、昔『ゲルマニウムの夜』の挿画を書いたことがある。『文学界』という雑誌だった。なんせ純文学の雑誌なので文章が来ない。実は作家が何時、誰のが来るかわからん。ゆえにその雑誌丸々全部のイラストを書くという注文の仕方。んで内容も読まずにとにかく色々沢山「書け」というすごい注文の仕方で来た。その中の一つが花村の「ゲルマニウムの夜」だった。結局、雑誌が出来ても内容は真面目に読んでなかった。芥川賞をとったので本を買ってきて読んだんだが、どうも微妙に見覚えがあると思っていたら、自分が絵を書いた小説だった。
ゲルマニウムの夜』を含む『王国記』シリーズはカトリックの人に読んでほしい気もする。読者を選ぶので、全面的に勧められないのが難点ではあるけど。

ゲルマニウムの夜

ゲルマニウムの夜