『「弱い父」ヨセフ キリスト教における父権と父性』竹下節子 父とヨセフと救いについて

昨日のエントリで、惚けていく父のことを書いた。老いるということの残酷さと共にあれほど子供心に恐ろしかった父の像の変容を自覚せずにはいられない日常で、「父」の像とはなにか?と自問することも多い。
先日も紹介した竹下せんせのこの本はそういう私のもやもやの日常の中で福音の書となった。

ヨセフと言うのは、前にも書いた通り、かなり影の薄い存在だ。竹下節子がいう「人類初の核家族モデル」とする聖家族にあって、ヨセフは母マリア、子イエスに比してかなり影が薄い。なんせ婚約前の寝取られ男的な間抜けっぷり。竹下センセによると、どうやら欧州中世においては民衆からはかなり軽視されていたようだ。
明治生まれの奇想の絵師、伊藤晴雨は責め絵で有名な絵師で、拷問される女性、縛られる女性を書き続け、乱れた髪フェチである。まぁいわゆる明治のサブカル親父である。その晴雨の絵に時事ネタシリーズがあって三面記事、それも情愛のもつれ事件を取りあげた。そのひとつに江戸時代の光景がある。姦通罪に問われた男女が町の自治集団から晒しモノの刑にされるというものだが、なんと罪を犯したカップルのみならず、寝取られた夫も「まぬけ」だかなんだかと書かれたのぼりをつけられてともに晒されている。それを観ている大衆の嘲笑は寝取ら夫にも及ぶのである。洋の東西を問わず、寝取られ夫はかように大衆から馬鹿にされる対象であった。
ヨセフがどこかで軽視されたのは無理もないのだが、正直、相手が神様である。しかも寝取られることが夢で予言されちゃうのである。そしてその子供の性で、放浪を余儀なくされるのだが、妻マリアを守り、自分の子でもない子を守り、養父として彼らをずっと保護し続ける。
この忍耐力、けして栄光もない歴史的存在、市井の人としての生き様において、多くの聖職者が、やがてヨゼフに謙遜と忍従、素朴な生き様の理想を見いだし、聖人として見直されて行く過程は、ある意味ドラマティコでもある。パードレ達はそこに神に仕える奉仕者としての理想像を見いだし、修道女達は等身大の人間の「父」として慕った。
我が父の話に戻るが、歴史に名が残ることもない、確かに生涯に手がけた仕事は国策によって為された歴史に残るような物体ではあるが(モノがでかいだけにね)、しかしそれは無数の人が関わるプロジェクトでもあり、立場としては中枢にいたとしても、現場で働く数多の労働者と同列に、ただ大きなプロジェクトの歯車の一つに過ぎない。父はそういうのを大切にしていたし、そのどれもが欠けても仕事は完成しないと考えていた。だから歴史に名が残らずとも、栄光がその身になくとも、ただ「産み出したこと」と「世に送り出した」こと自体を、良しとしていた。
この生き様は、竹下節子が描くヨセフ像そのものであるなと。書を読みながら考えていたのだ。
過去の、この世の多くの「父」はそのように人生を閉じたであろう。ヨセフという存在は等身大の父の像でもある。ゆえに崇敬が自然に起きて不思議はない。

キリスト教は人間臭い宗教である。なによりも中核にあるのは親子の関係がモデルであり、また家族を持たない独身者も出てくる。更にはカトリックにおいてはこれまた人間臭い聖人がゴロゴロしていて、聖人といいながら、かなり俗っぽく悩んだり弱さをさらけ出したりしている。ゆえに我々はその数多いる「聖」とされる存在のどれかにシンパシーを感じるモデルを見つけることが可能である。弱さも、悩みも持つ人間性を否定しないそのシステムが、大衆に救いをもたらしたとも言える。
ヨセフのように英雄でもなく、人並みなことで悩み、そしてどこかで軽視されていながらも、それこそがいいのだという逆転する像を持つ存在は大きい。
キリスト教の救いとは「希望」にある。少なくともくじけずにいられる同伴者としてのこれらのモデルの存在は大衆にとっての救いにつながっていく。

ところで、マリアの母アンナとヨセフの話を読んでいて気づいたが、ローマ・カトリックの聖家族を取り巻く伝統的な像ってどこかサザエさん的だな。ヨセフの親父については誰も言及してない。

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昨日のエントリや介護関連のエントリで、メールやコメントをいただいた。介護で大変な思いをされた方も多い。それらの言葉には励まされる。
これから老齢化していく社会で、老いた父母との関係性を問い直すことが更に求められる時代が来るのだろうなと思う。そういう観点から聖人達を見直す必要はある。竹下節子のこの書はそういう意味でタイムリーではあるなと思う。