『また会う日まで』ジョン・アーヴィング アーヴィング・ラビリンス

ノロかなんだか判らん風邪でとにかくとろとろと眠りながら本を読み、本を読みながら眠っていた2007年の晦日。外は島固有の冬の風が吹き荒れ、家の中は誰もいない。海鳴りと風の音のみがガラス越しに聞こえてくる部屋で、島犬が足元で丸まったベットにもぐり込み、微熱に浮かされ、ただひたすら本読みと寝る一日が過ぎる。
こういう状況で読むアーヴィングってのははまり過ぎだ。

また会う日まで 上

また会う日まで 上

また会う日まで 下

また会う日まで 下

原題はuntil I find you あなたを見つけるまで。とでもいうか。邦題だと尾崎紀世彦の唄を先に思い出してしまう。そういえばあれは阿久悠さんの詩だったな。

にしても長い。ひたすら長い。そういえば、アーヴィングの小説はいつも上下巻である。『ガープの世界』も『サイダーハウスルール』も『ホテルニューハンプシャー』も『サーカスの息子』も『オウエンのための祈りを』も、うちにあるのはみんな上下巻だ。『熊を放つ』だけかろうじて一巻本だな。まだ読んでない『未亡人の一生』も上下巻だ。

で、なんだか昨今風のこじゃれた間の空いたおフランスのペーパーバック風の表紙のこの小説は、その表紙のようにアーヴィングにしては薄味の印象。実は内容的にはかなり濃い設定であるに関わらず、口悪く言えば軽いというか、よく言えば透明感ある印象を受ける。もとよりアーヴィングの小説自体がはなからそのような空気感を持つ個性である。登場人物はこれまた変な設定(女装する俳優ではあるが女装僻は無い。「おー」が口癖)で、周りを取り巻く人物達も変人が多いというのはいつもと同じなのだが、それにしてもこの新作はいつにもまして、シュールでヘビーな状況を爽やかに書き出している。つまり何時ものような読後の奇妙な引っ掛かりがどこかで希薄である。
帯には自伝的とあるが、どうやらアーヴィング自身が父を知らず、この小説を書いている最中に父の消息を知るという経験をしていたという。そしてまさにこの小説はその自信の体験を同時間的に書いていたというから、その小説よりも小説めいた自分自身の体験がより意識されて、結果としての距離感が生じたのか?例えばオウエン・ミーニーの物語における、オウエンの友人で語り手が、オウエンの立場にあって描かれていくみたいな。そういう小説だったら『オウエンのための祈りを』はあそこまで引っ掛かる小説じゃなかっただろう。つまり常なら変な主人公を見つめ続ける語り手がそのまま主人公になってしまったための希薄さでもあるかも。
とはいえ、それがこの小説を損ねているわけではない。アーヴィングの読者なら、なお一層面白く感じるだろう。何故ならやはりアーヴィング流のフィクションであり、しかしそこには真実めいた「自伝」があり、そして主人公ジャックを「俳優」とすることによって、作中で彼が「演じる」物語の境界線が曖昧になる時があり、あるいは記憶を遡る旅の最中で真実と虚構とが混迷していく、その不安定さがなんともまぁ、熱に浮かされたような頭には心地よかったといいますか。アーヴィングの描く迷宮に入り込むのはそれなりに気持ちはいいですよ。
で、ま。一言で言っちゃえばこりゃ「自分探し」小説なわけだが。(本当は「父探し」なんだけど自分の内面、記憶への旅になっていたりもするのだ)文豪アーヴィングにかかるとひねくれまくる。自らを形成していく体験と、その記憶の曖昧さ、そして遡る旅のなかで、欠けている自分のなにかを探しに行く。「トラウマ」というのはアーヴィングの常のテーマではあるが、これはなにやら種明かしめいた小説でもあり、そういえば花村萬月の『百万遍』もそういう小説なんだが、花村のはどろどろと、他の小説よりもより濃いのに比べて、アーヴィングのは薄味になるという辺り、それぞれの作家の持つスタンスが透けて見えて面白いもんだとは思った。

そういや阿久悠さんの『また逢う日まで』の詩は示唆的だ。この小説のどこかにシンクロするといいますか。