『トーマの心臓』萩尾望都 こりゃキリスト教文学だよな

ネットな友人がこの漫画読んで書評を某所に書いていた。

トーマの心臓 (小学館文庫)

トーマの心臓 (小学館文庫)

懐かしい・・・思わず書棚から探し出して私も読んでみた。
この漫画をはじめて読んだのは中学校のときだった。カトリック系の女子校という閉鎖空間の舞台設定がこの物語の世界観に共通していたのか、同級生の間で非常に人気があった。
ギムナジウム、つまり寄宿制の男子校を舞台にした少年たちの友愛の物語であるがゆえか、漫画史の中ではボーイズラブの発祥的存在として『風と木の歌』と共に扱われる作品だけど、実のところこれは寧ろキリスト教的な問題を抱えた作品で「アガペーとしての愛」がテーマである。だからボーイズラブ的なエロスの愛にとどまらない、つまりもっと根源的な、特定への人物の愛だけではなく、他者と自分との関係の問題であったり、あるいは信じるものへの自分自身の所在の問題だったりする。

主人公の一人、ユリスモール・バイハンは信仰を棄てた罪深い自分に悩み、自己否定してしまう。学校の友人達をはじめ人間関係の一切を断ってしまう。神に愛される資格がない自分は、人を愛する資格もなければ愛される資格もない。そうユーリは結論づけ、自らのうちに閉じこもってしまう。キリスト教において「教会・エクレシア」は人間関係によって成立するもので、なにも目に見える教団だけが教会でもなく、聖堂が教会というわけではない。同じ信仰を持ったこの世に関わるすべての人の間に於いて成立していくものであり、それは「聖霊の働き場」として認識される。だから関係性を拒絶するということそのものが、キリスト教信者にとっては絶望でもあり、同時に罪にある状態でもあると認識されるのだ。自死が罪とされたのは、まさにその「関係性」を自ら断つところにあったりする。

同じ頃に読んだ遠藤の「沈黙」と共に、この問題はカトリック教育を受けていた私の中ではずっとテーマでもあった。だからこの作品は非常にシンパシーを感じて読むことになったんだと思う。

ところで上記のような「罪とはなんだろうか?」ということはクリスチャンだと、うじうじ悩んで、信仰違う人に「クリスチャンってアホじゃね?」といわれてしまうけど、例えば「生きていることってなんだろうか?」ってことは誰でも悩んだりするよね。あるいは「自分ってどんな価値があるんじゃろか?」とか。若い頃はそういう性質のことに異常に敏感だと思う。他者である友人や親、先生といった関係の中での自分ってなんだろうか?とか小さい社会共同体の規則の中で自我の位置を模索していく。とにかく若い頃って他者との関係性がとにかくすごく重要だった気がする。

丁度、紡木たくという、80年代くらいの暴走族(まぁつまりヤンキーな)や不良(この時代の不良はスカートが長くて、聖子ちゃんカットをして、ペタンコなかばんを持っていた)達の世界を描くのに長けた漫画家の作品を読んだ所で、彼ら彼女たちの世界もまた、ダチとの人間関係や、決められた世界(学校)でのルールからはみ出すことの不安ー例えば仲のよい友人の退学が彼らを安全で楽しい世界から引き剥がしていくーその閉鎖世界でのアイディンティティをどう持てばいいのか悩んでいるような、とにかく若い頃の不安とは世界と自分との関係性をどう構築すればいいのかってトコにあったりするなと。

わたくしにとってはキリスト教的価値観の中で、彼ら聖職者や教師達が示す倫理や世界観の中で、彼らの価値に飲み込まれる前にどう自我をもって行けばいいのか、意識的にあるいは無意識的に考えていたのだと思う。んで、このときに自分の宗教観が結局構築されていったのだとは思う。つまり「トーマの心臓」で語られていくユダの位置づけや「沈黙」における転びの心理。そしてトーマの犠牲といった、キリスト教的な物語を、消化していくことで大人になっていく過程を経験していた。

ここで問われるのはやはり「愛」と「赦す」というテーマであり、キリスト教の最大のテーマでもある。ユーリは自分を赦すことができず、故に全ての愛を断つ。魂の虜囚と自らなってしまう。ユーリの観察者でもあり保護者的なオスカーは自らの父親との関係の中で悩み、赦しという感覚をその体験を通じて得た。ゆえにユーリの囚われに誰よりも敏感でもあった。

彼を解き放つのはそのオスカーでもなく、結局誰かの犠牲であった。それがトーマであり、そしてエーリクがそれを解く。

萩尾がキリスト者かどうか知らないが、当時、キリスト教はこうしたもので成立しているなぁと学んだものだ。「囚われ・・つまり罪の状態にある人間はイエスの犠牲によって解放される」そういうのがキリスト教だったり。その犠牲による「愛」は最大の愛のかたちでもある。自分自身を差し出すことによって他者(つまり人間)が救われることを神は願う。それをキリスト教では「神の愛」として考える。

「宗教」の時間、聖書を解説していく坊主のたわごとが退屈で、授業中寝ていた私も、何故かこの漫画を通じて予習復習していたようだ。これが少女マンガに連載されていた時代があったと思うと、なんだかちょっとすごいなと思う。

先日書いた「ちょびっツ」のちぃの愛のリアリティのなさについて、そこにあるのは「予定調和型の愛」ということを書いた。ほんとうは真っ直ぐ人間に向かおうとするなら、ユーリやエーリクの如く傷つかずにはいられない。愛を獲得するにはぶつからざるを得ないことを、中坊の頃に知ったというのはよかったのか悪かったのか判らないが、現実の人間関係に於いてはうまくいかない場合のほうが多く、憎しみに至る場合もある。しかしエーリクが諦めなかったように、それはいつか通じることがあるのだという希望がこの漫画にはある。つまり救いがある。そうでなければ辛い。

メイドさんとか、執事カフェとか、予定調和型の世界をバーチャルに体験したくなるのは、確かに現実の人間関係が辛かったりするからなんだろうけど。どーにも面白みを感じないのは、それが人間的でなくやはり機械化されたプログラムされたような世界だからかも。(その辺り、「ちょびっツ」が今の社会の病理を「人型パソコン」として抽出してみせたということで感覚的に優れているとはいえるかも。)あるいは結局、登場人物に肉薄できないゆえの他者的な視点で終わるからかもしれないし。

結局、乗り越えずには先へ進めない現実があるのは誰しもがわかっている。それで我々は皆、じたばたする。その乗り越え方の一つの回答としての「トーマの心臓」という物語に若い時代に出会えたのはラッキーではあった。

別にクリスチャンでなくとも、人間関係の中で悩める若い人に読んでもらいたい作品だなと思う。こういうのって特定の文化土壌(この作品の場合はキリスト教だけど)であるなしに関わらず、普遍的にあるなぁと思うし。


・・・でこの人の影響と北杜夫のせいで、中学時代にヘルマン・ヘッセを読んだ。一応「トニオ・クレーゲル」とか「車輪の下」とか読んだけど、なんだか感覚があわず今となっては内容すら覚えていない。今、読むなら違うんだろうけど、何故かドイツ文学はゲーテといい、ヘッセといい、いつも消化不良になってしまう。フランス文学やイタリア文学と比べて合わないのは何故だろうか?

ところで、萩尾さんはこの物語の動機を、あるとき見た映画の結末ー一人は最終的に自殺し、一人は彼を愛していたことを示せず後悔のうちに「許してくれ」と嘆くーに不満だったから、その先はどんなになるんだろうか?と思って書いたそうだ。20代半ばで、この想像力。なんかどんな青春時代を送ってきたんだろうか?興味深い人だな。


ユーリを堕落させた「悪魔」として描かれるサイフリートが論文を書いた「ルネッサンスヒューマニズム」という本に妙に魅かれていて(まぁ当時はそれが意味するトコなんかてんで理解していなかったけど)、のちにルネッサンスオタになったのも、この作品の影響だとすると、わたくしの人格形成に大きく影響した作品でもあったなと思う・・・。いやはや。頭がやわらかいときに読むものって重要かもね。


そういえばストーリーの中で、トーマとエーリクがケルンから帰る汽車でナニを間違ったかギーセンに行ってしまう。カールスルーエに行くはずで乗ったはいいがフランクフルトかどっかで車両が切り離されて、何故かそっちに行ってしまったのだな。
のち、欧州を旅するようになってこの「行き先間違えた車両に乗ると大変」が念頭にあったため、色々たすかった。ただ、ケルンからカールスルーエやギーセンに向かう直行便は何故かクックの時間表には存在していなかった。今、思い出したよ。
昔は走ってたのかなぁ?

紡木たくの代表作↓

ホットロード 完全版 1 (集英社ガールズコミックス)

ホットロード 完全版 1 (集英社ガールズコミックス)

これもなつかしーよなぁ。80年代の不良世界で。掲載当時はもう既に大学生だったけど。この時代の不良はまだビーパップな感じ。