第二バチカン公会議の精神の中で

11 第2バチカン公会議は、芸術世界に対しても直接的な考察を伴う、教会と文化との間の刷新された関係の基礎を示しています。そして、それは開かれた、そして対話の友好的な態度のしるしの中に示された関係です。「現代世界憲章」の中で、公会議の教父たちは人間の生活における文学と芸術の「重要性」を強調しています。「実際、それは人間の本性、また自分自身と世界とを理解し向上させようと努力する人間の課題と体験を表現しようと試みる。それは歴史と世界とにおける人間の位置を発見し、また人間の悲惨、喜び、必要、力を明らかにし、人間のもっと明るい未来を描こうと努める」(18)。
 この基本線の上で、公会議の終わりに、公会議教父たちは芸術家に挨拶とアピールを行っています。彼らは次のように言いました。「私たちが生きているこの世界は美を必要としています。それは失望に陥らないためです。真理と同じく美は人間の心の中に喜びをおき、また時代の消耗にあらがう価値のある実りです。それは世代を一つに結びつけ、そしてそれを驚きの中へと交わらせます」(19)。美を深く評価するこの精神のうちに、公会議典礼に関する憲章は芸術に対する教会の歴史的な友好関係を思い出し、そして特に聖なる芸術、すなわち宗教芸術の「傑作」について語りながら、芸術家の作品が、ある仕方で神の無限の美を反映し、そして人間の精神を神に向けることができるとき、その「高貴な役目」を考えるのにためらうことはありませんでした(20)。また、芸術家の働きのおかげで「神を知ることがよりよくあらわされ、そして福音に関する説教が人間の知性に対してより明晰になります」(21)。この光に照らして、マリ・ドミニク・シェヌ師が次のように肯定したことは驚くことではありません。つまり、もし芸術的表現、すなわち固有のやり方で「美学的説明からだけでなく本当の神学の『場』から」(22)作られた文学ないしは造形芸術に正当な注意が払われないのであれば、神学史家の作品は不完全なものになるだろうと。
(18) N. 62.
(19) Messaggio agli artisti (8 dicembre 1965): AAS 58 (1966), 13.
(20) Cfr n. 122.
(21) CONC. ECUM. VAT. II, Cost. past. sulla Chiesa nel mondo contemporaneo Gaudium et spes, 62.
(22) La teologia nel XII secolo, Milano 1992, p. 9.

ヨハネ・パウロ2世は積極的に芸術を評価しています。そもそも神のロゴスとは文字に限らない、論理に限らない、叡知そのものを差すものです。ですからその神の叡知を人間が認識する場合のツールには様々なものがあるはずです。伝統的に東方(ビザンツ)と西方(ラテン)のカトリック教会はそのような人間の知覚に訴えかけるあらゆる手段を用いて秘跡神との対話ともなるべく典礼芸術に採り入れてきたのです。視覚芸術も、音楽芸術も、その芸術家が認識した神観であり、一種の神学であったのです。しかし近代において、ヨゼフ・ラッツィンガーが自己の書で指摘したように、カトリック世界は神学の教条的な、或いは文字化された、一部の知識人の特権的なもののみが注目され、他方で活発な芸術家達は啓蒙主義的な世界へと移行していきます。今日の教会芸術に活気がないことと、よく日本でも皮肉られるような「キリスト教はインテリの宗教だ」という評価は実は根が同じなのです。(例えば、超人ポープメンの漫画などは教会は認めないでしょうねぇ。)
ある日本人の司教は「バチカンの美術品を売り払い、貧しい人に分け与えろ」と言いました。一瞬、受けのいいような言葉ですが、この言葉は聖書に出て来るベタニヤの女のエピソードを思い起こします。ユダはイエスに高価な香油を捧げる女性に対し、この日本の司教と同じ言葉を投げ掛け、イエスにたしなめられます。
芸術家はなにも持たないのですが、自己の限られた才能を召命としています、教会がそれを評価しなければそこにいる場所はありません。しかし上記のように芸術を市場原理での価値でしか見ない貧困な考え方が今日のカトリック教会には蔓延しています。教会芸術が活き活きとしてこないのは無理もありません。そうした風潮をラッツィンガーも嘆いています。
尚、この単元のタイトル、「第2バチカン公会議」についてはいずれまた日を改めてご説明でもします。