教会は芸術を必要とする

12 キリストから託されたメッセージを伝えるために、教会は芸術を必要とします。実際、芸術は聖霊の、目に見えない、神の世界を知覚できるようにしなければなりませんし、できる限り魅力的なものにしなければなりません。ですから、言葉であらわすことのできないものを意味を持つ形式にしなければなりません。ところで、芸術は、そのメッセージのこの面あるいはあの面をさっと理解する可能性を持ち、見る者あるいは聞く者の感覚を育む色彩、形、音に移し替えます。そして、その同じメッセージからその超越的な価値を、そしてその神秘の輝きを取り去ることはありません。
 教会は、特に文学あるいは造形のレベルで、想像力の無限の可能性、そして象徴の力を使って、すべてのものを現実化できる人を必要としています。キリストご自身がその説教の中で想像力を十分に使用し、受肉において、見えない神のイコンになるという選択を完全に貫きました。
 教会はさらにその上音楽家を必要とします。なんと多くの宗教音楽が時代の流れの中で神秘の感覚に深く浸された人間によって創られてきたことでしょう。無数の信徒が、他の信徒の心から生まれたメロディーでその信仰を養い、典礼の一部あるいは少なくともその品のある流れにきわめて正当に力を貸してきました。歌の中で信仰を栄光の、愛の、神の救いの働きを信頼して待つことの生命力として私たちは経験します。
 教会は建築家を必要としています。なぜなら、信徒を一つに集めるため、また救いの神秘を祝うために空間を必要とするからです。第二次世界大戦の恐るべき破壊と大都市の拡大の後、建築家の新しい世代がキリスト教祭儀の要求と取り組み、現代の建築の様式を考慮しながら宗教的テーマのインスピレーションの可能性を確認しています。実際、彼らは、しばしば、祈りの場と本当の芸術作品とが一緒になった教会を作り出しています。

教会からの芸術家へのラブコールです。前の単元の続きになりますね。せっかくなので秋葉系なども採り入れるといいと思いますね。まぁ聖域やミサの典礼にそんなものを持ってくると聖ベルナールじゃありませんが、「祈れないがな〜〜」となりましょうから、信心業(ミサ以外のオプションね。ロザリオとかもそれに入ります)や教会学校で用いるとよろしいかと。