芸術は教会を必要とするか

13 教会は芸術を必要とします。それでは芸術も教会を必要とするのでしょうか。この問いは挑戦的に思えます。現実に、正しく理解するのであれば、それは正当で深い動機を持ちます。芸術家は常にものごとの隠された意味を探求し、その苦悩は言葉にあらわしえない世界を表現することのために生じます。それではどのようにこのようなインスピレーションの大きな源が芸術家にとって宗教的なものである魂というある種の祖国でありえないことがあるでしょうか。おそらくはより重要な個人的問いをおこない、そして実存的で決定的な回答を求める宗教的な領域のうちにあるのではないでしょうか。
 実際、宗教的主題はすべての時代の芸術家の作品の中にあります。教会は常に福音的メッセージを解釈するために彼らの創造的能力に呼びかけ、そしてキリスト教共同体の生活にその具体的適応を呼びかけました。この共同作業は相互に霊的に豊かになる源でした。決定的にそれは人間の、その本当の姿の、その真理の理解のために利点がありました。また芸術とキリスト教の啓示との間に存在する特有の絆が現れていました。人間の能力は別の宗教の中でも刺激的な示唆を見いだすことはないと言おうとしているのではありません。古代の芸術、特にギリシアとローマの芸術、そしてオリエントの最古の文明で開花した芸術を思い出せば十分でしょう。しかし、キリスト教は神のみことばの受肉という中心的教義のおかげで芸術家にインスピレーションの特に豊かな地平を提供したことも真実です。福音の汲み尽くせない鉱脈を放棄することは芸術をなんと貧しくしてしまうことでしょうか。

前の単元で書きましたが、芸術は理解者のいるところに存在するのです。教皇のこの言葉はカトリックの芸術家たちの希望を奮い立たせるものではありますが、残念ながら今の、特に日本の教会において、ヨハネパウロ2世のような理解者はたいへんに少なく、面白みもありません。芸術はそれ自体が求められ、生きる場所において開花するものです。現代の(特に日本の)教会が正しく芸術を学んでいるとは思えませんから、まぁ、芸術家がそれに積極的に応答することは無理でしょう。もっともアマチュアリズムが蔓延している現代社会のひな形ですから仕方がないとはいえます。かつてのアカデミズムの分野において素人が玄人を凌駕し支配しているという現象はなにも教会に限ったことではありません。そして芸術はより難解となり、大衆との接点を放棄し、自己の世界に引き篭ってしまっています。これも時代の流れなのでしょう。寧ろ大衆芸術(何度もいうが、秋葉系など)に優れた才能が存在しています。