パースペクティブの時代性

昨日からパノフスキーオルテガを読んでいる。なんとなく眠れなかったのでだらだらと読んでいた。
スコラ学というのの典型に大系的に物事を捉えながらも、章ごとに細かく命題を立てそれに応答する形で論考が進められていくのがある。トマス・アクイナスの「神学大全」などは3部ぐらいからなり、神観とかイエスについてとか人間の問題とか、様々な事象がさらに章ごとにテーマが存在し、その章の中にさらに細かく問題提起があり、その問題に応じた様々な見解と反論をしていくという形でとにかくパソコンのフォルダーの中にさらにフォルダーがあり・・といったフラクタルなしかし様式化された構造を垣間見ることが出来る。それはパノフスキーのいう通り、正方形、あるいは矩形のパートが連続して構築されていくスコラ建築の様態と確かに似ている。細かく分かれるパートは天空に屹立する大伽藍の一部であるがそれは非常に重要な一部であり、必要欠くべからざるもので、ロマネスク建築のようなどこか行き当たりばったりな構造とは違う。
非常に興味深いのは、シトー会の聖ベルナルドゥスが、過剰な装飾を嫌い、サンドニの聖堂建築を推し進めていたシュジュールを批判し、自らはユークリッド幾何学の知識を用いて聖堂を建てた。スコラ学という理性的学問に照らせば、ベルナルドゥスの建築のほうがスコラ的ではあるが、視覚的にスコラ学を象徴するのはシュジュールのサンドニ聖堂に代表される装飾過多なゴシック様式の聖堂だということだ。
ところで、パノフスキーによるとジョルジョ・ヴァザーリは「ゴシックって、なんとなく人間性を無視したような規格で野蛮〜」と思っていたらしい。イタリア人はゴシックを馬鹿にしている。ローマ的価値を至上とする彼らは身体的基準を非常に重んじる。レオナルド・ダ・ヴィンチに代表される人間の身体の持つ美しい比率に基づいたスケールこそ「美」であるとする。ユマニストならではの発想ではある。アルベルティの建築術の本はそのような人間工学に基づいた比例の美を語る。そして人間という存在に密接に関わる視点で物事は見られるようになる。
典礼の精神」でヨゼフ・ラッツィンガールネッサンスをぼろかすに言っていた。ルネッサンス芸術が好きなわたくしはムカついたが、パノフスキー的発想で見ると分からなくもない。ルネッサンス美術は光学的であり、そして遠近法を探求する。絵画には消失点が存在し、見る側の人間を画家が意図した空間へといざなう。そのパースペクトは画家が見るものを彼らの世界へと強引に従わせることにもなる。
マザッチオの三位一体像は、見る場所を厳密に固定する。フラ・フィリッポ・リッピのウフッツィにある「聖母戴冠」の絵は微妙にパースペクティブに歪みがあり、人物像は心持横長に描かれている。この奇妙な歪みはおそらくこの祭壇画が聖堂の脇祭壇の小さい礼拝堂の一つを飾ったものであり、正面から鑑賞されるよりも、絵の右方向から鑑賞される場合が多いことを想定して描かれた物であろうことが想像できる。(ほんとかどうかは知らないよ)
ルネッサンス絵画は消失点は概ね一つである。焦点が一つに規定されることで視点は主観的になる。自らの身体性を強調する人文主義は非常に「人間の」主観に満ちた思想であるということだろう。それは様々な視点を提供しながら論考していくスコラとは多少異なっている。実存する人間を中心に考える実証的な視点は「人間というものを中心に据える主観」的思想とはいえる。その主観的視点を画家は見る側に押し付ける。ラッツィンガーがぶー垂れるのはそのへんだろう。
バロックは焦点が二つ存在する。基本構造が楕円だからだ。二つの焦点の中で見るものは不安に陥る。ゴシックの持つ安定性、しかし上昇する増殖への畏怖とはまた違う、内面に向かう揺らぎであり、それは非常にはらわた的である。だから正直気持ち悪い。しかしトリエント公会議以降のヨーロッパ世界。教会という聖域と、啓蒙主義という神なき人間世界の論理とのそれらの思想のせめぎあいの狭間に置かれた人間の揺らぎを象徴しているともいえる。
http://d.hatena.ne.jp/antonian/20050625/1119631569
上記のエントリーのコメント欄でぐりちゃんが以下のように言う。

ただね、教会というのはダブル・スタンダードだから、現場の司祭が適時扱えばよいと
いう意見もあるわな。バチカンとしては原則を固執すればよいと思う。というか、この
問題は下手をすれば教義全体に影響を及ぼすと思われるので、簡単にバチカンとしては
変更できないと思う。

これは確かにその通りであるとは思う。世俗と違う見解を強力に固辞することで、人々は二つの消失点の狭間に置かれる。人文主義的な発想と神という存在の狭間。二つのパースペクティブがあるということは、個々に応じた思考をせざるを得なくなるとは思うのだ。

ようは最終的に個人に決定はゆだねられている。教会がぶー垂れても個人は自立しそれを下に考えるべきではあるだろう。ただ政治の決定という俗なるものへの具体的な方法を教会が提供するのは行き過ぎではあるとは思うが、倫理を「教会はこのように考える」ということは確かに提供はしなくてはならないだろう。