悪魔と天使

はてな村で活躍するマシア師のブログのコメ欄からの発展ネタの単元です。
イエズス会のすごいところは新しいメディアであるネットやブログというツールを積極的に用いているあたりですね。

インターネットという新たなメディアは言論が双方向、しかも水平方向ゆえに多様な人々がクロスオーバーする空間になっています。カトリックギョーカイという、福音を述べ伝えよなどと異教徒世界の人々には余計なお世話的なことを命ぜられている団体としては新世代の福音宣教の実験的場としても注目されるわけですが、いち早くイエズス会はこのネットでの活躍を軽視せず、積極的に利用していこうとの方針を打ち出したそうですよ・・ということは以前書きました。

ですがその水平方向に広がる、つまりまぁ言論のグローバリズムなネットという空間の負の側面としては、思いもよらぬ突っ込み、炎上という災難も待ち構えています。それをものともせず行い続けるにはある程度、論理的な知性を要求されるわけで、特にカトリックという常に突っ込みいれられてしまう団体などは最強のモヒカン族(←はてな村における論理的に極めたブロガーへの称号らしい)戦士でないと大変な目に遭います。
そのリスクを想定しながらもコメ欄を開放しているというクソ度胸を持ったマシア師はすごいものがありますね。市井の問題を扱う倫理神学者としての心意気と、信仰と理性を保持していこうというロゴスの宗教者ならではの言論世界への心意気に「漢」を感じてしまいます。モヒカン的神学者。萌え。
(某修道会なんか事なかれ主義でネット言論者も育てず、ネット禁止令が出たとか聞いたが・・・・・大違いである)

というわけで時々ですがコメ欄で議論が起きるマシア師のブログ。

○J.マシア神父のブログ「手作りの考え方」
http://d.hatena.ne.jp/jmasia/20081211
■思いがけないときのイエスの訪れ

この単元では、福音書におけるイエスの物語についての解説ですが、イザヤ書との関連が語られています。コメント欄で「報復」という問題についてLuciaさんが指摘したことから発展したことで、コメ欄では違う問題が生じました。
Luciaさんがはじめ問題にしていたのは、いわば例えば典礼からセクエンツァの「怒りの日」がなくなってしまったような、あるいは父なる神の厳格な側面が第二バチカン以降の神観では変容したような問題への指摘でした。

コメ欄で発展した話題はこれらの問題とは別の、「悪魔」や「天使」の存在問題ですね。

ここではマシア師の単元を放れ、それについて語っていこうと思います。

天使や悪魔については竹下節子氏や、トマス神学の稲垣良典氏の良著があり、それを参考にしたいのですが、残念ながらどちらも島です。参考に出来ないんでつたない脳みそで考えてみることにしました。

コメ欄に於いてマシア師は

jmasia 2008/12/18 10:32
シェケル先生のスペイン語訳もフランス語のTOB訳もルカ4章の19にはイザヤ61章の2の後半の部分はいみじくも省かれていることをしてきしております。「報復」や「復讐」というのはイエスが教えた神様らしくない。尚、悪魔の話を引き合いに出すのは邪魔になると思いますす。信者たちに「悪魔を信じされてしまう」誤解を生む恐れがあるからです。マシア

jmasia 2008/12/23 09:18
私たちはイエス・キリストを信じております。悪魔の存在を肯定さうる必要がないのです。天使と悪魔のイ話しは前近代的な迷信です。マシア

・・・と、書かれています。

■何故マシア師は悪魔を迷信と語ったか?

マシア師は母国語でなく日本語で書かれておられるので説明が大変かとは思います。ザビエルに怒っていた英国人神学者ミルワード師と違い、日本語で語りかけてるあたりがすごいのですが、なかなか説明に苦労なさっておられるとは思います。ですから大変言葉足らずな印象になってしまい、誤解を受けやすいとは思います。しかし、はっきりと「悪魔は迷信」と語っておられる。

いやはや、カトリックの思想の幅の広さには驚かされます。カトリック教会は原則としては悪魔という存在を否定していません。天使もそうですね。存在していると考えるのは伝統的な考えです。ですからマシア師はこの教会の伝統に喧嘩売ってるみたいですごいと思いましたです。

先ずマシア師の文脈としては、倫理神学者ゆえのスタンスからそういう結論に達せざるを得なかったのか?と、つまりまぁ倫理の世界は人間の世界の問題であり、形而下のことについて考えざるを得ず、ゆえに最終的に神学的な考えもまたそれと同様非神話化されたものとしてイエスの物語を見ていくのかもしれない。などと考えました。つまり倫理的なこの世の悪的な問題は人間世界によって解決しうる問題であり、ゆえに悪魔という形而上の問題にしてしまっては、事の本質を見ることが出来なくなってしまう。解決から遠のいてしまうだろうという問題を現場で度々感じておられるんでは?と思ったからです。

これを友人司祭に話したら「第二バチカン公会議の原則に忠実だからだよ」とのこと。つまりイエスの物語を中心とした原則に立ち返ろうという動きが第二バチカンによってなされ、それを受けてマシア師はイエスの福音物語を考えているからだという評価ですね。
それは例えばベネディクト16世が「ナザレのイエス」を敢えてラッツィンガーの名で書いたということとも連動しますね。
これ↓出たてほやほやの本。まだ読んでない。微妙に高い・・。

ナザレのイエス

ナザレのイエス

天使や悪魔というのはいわば中心的な使徒信経に見られるものからすると派生的な文化的なものではあります。まぁ典礼曲で言うならセクエンツァですね。先に書いた通り、怒りの日という曲が消失したこととも通じます。更に友人司祭に言わせると、こうした余計な「文化」の排除は、トリエント公会議で地方地方や様々な修道会などで特色があった中世の典礼を改革し、一部を除いてローマ典礼一本化したことにも通じるといってました。中央集権化というか、一種の原理主義化ですね。

とはいえ付随する文化的なものが盛り上がりすぎると中心となるものが見えづらくなってしまいます。ですからバランスが必要とされるのです。天使や聖人、あるいはマリアなども含め、カトリックにはイエス以外の存在がひしめいていて面白い文化を形成してきたわけですが、ともするとイエスよりも聖人やマリアの方が蝋燭を集めているような状況を憂えた学者たちが原則に立ち返ろうよということで第二バチカンでは聖書研究が盛んになったり、「古代」が見直されたりしたわけです。で、この流れからするならばイエスの物語を語るときには中世で語られて来たような「悪魔は邪魔になる」ということも生じる。

かような文脈からするならばマシア師の言わんとするところはわかると思います。

しかし、それはあくまでも神学世界で知的に極めたものの世界の信仰の話であって、わたくしのような庶民はイエスだけじゃつまらない・・などと思ってしまう度し難い性向を持ちます。わたくしはイエスなんぞだけだったらたぶんカトリック信者にならなかったと思います。だって偉すぎて親近感がもてないもんよ。アントニオ様のような下っ端の聖人がいてほっとするんだな。なので欧州に行くとついアントニオ様を探します。そしてアントニオ様に「神様にヨロ」などと祈るわけです。かように成田山に行くように聖人詣でとかしてしまうのが大衆の信仰ですね。ゆえに老獪なカトリック教会はそうした世界を否定せず巧みに取り込んできたわけです。プロパカンダに優れていたお陰でカトリックはあのように図体がでかくなったという按配ですな。電通を馬鹿にしちゃいかんよ、みたいな。
大衆信仰というのは迷信化しやすい。ゆえに適切な指導が要求される分野です。

まぁ、このバランスは実は難しいとは思っています。キリスト教であるからにはやはり具現化されるものとしての中心は「人としてこられたイエス様」でなきゃいけませんし。

つまりまぁ「悪魔」の否定というのは過激な発想ではありますが、上記の文脈で考えるならばマシア師のお考えはベネディクト16世とそう離れたものではないとはいえます。ベネディクト16世が若かりし頃に書いたキリスト教神学の著作は聖書から離れず、発表された当時はカトリックではなくプロテスタント神学者から絶賛されたと聞いています。これもまた「原則への回帰」的なものでした。(ゆえに彼はかつてはリベラルだと批判されていたのだ)

長くなるんで続きはまた明日。
次回はLuciaさんからの問題提起について考えたいかな?と思います。同じびじつ人間として共感が持てるのでその解説というか、おんなじ様なこと考えたんで。

そういうわけで「悪魔は迷信であるか?」という問題について考えたいなとは思います。ニューエイジ的なるものが蔓延する時代に、そういうものをどう考えるべきか?とかね。カトリックの伝統的な考え方とか。まぁ色々おさらいしてみたいです。