待降節の長崎の教会の様子報告

ええと。ご報告です。

ほぼ一年ぶりに降り立った長崎は寒かった。今回の展覧会を主催してくださったギャラリーカフェTUTTIのIさんご夫婦はカトリックの信徒さんで、浦上小教区に位置するところにお住まいだけど、友人神父が派遣されている本原教会に所属している。信者が大変に多い長崎ゆえに教会も多く、どちらも歩いていける距離なんで問題ないというか、一泊しないといけない教会に所属しているわたくし的には羨ましいものです。

で、その長崎のカトリックギョーカイはというと来たる降誕祭を迎えるので浮き足立っているというか、更には先月行われた列福式の記憶も覚めやらぬ状態で、まぁ滞在中は列福式ネタとクリスマスに浸りまくる結果となったという按配でしたよ。日本におけるカトリックの総本山的な雰囲気が長崎にはあるんで仕方ないです。おおいにギョーカイ的空気を愉しんでまいりました。

Iさんご夫妻はユニークな方で、奥様のご病気の体験をきっかけに、旦那様は某大手企業にお勤めであったのを早々とリタイヤ。奥様はガッコで音楽を教えておられたんですがそちらもリタイヤ、お二人で4年ほど前からカフェレストランをはじめられた。
うちの島でしばらく暮らし、今は山中湖に引っ越してしまったSさんがやはり早々とリタイヤして楽しく生活しておられますが、この年代の方はそういうスタンスの軽さがいいです。こだわりがないというか。

Iさんは100匹ほどの大量のレース鳩を飼っていて、この鳩は毎年の平和記念祭で活躍するそうで、せんだっての列福式でも活躍したんですね。それについての記事が来年に発売になるギョーカイ誌「カトリック生活」に載るそうなんで、ギョーカイ関係者は読んでくださいですよ。

■長崎のキョーカイ話。

長崎の教会は異常に多いが概ねどこもクリスマスの電飾をしている。そのスタイルはほぼ共通しているといってもよい。
こんな↓

建造物の上部に星型の電飾、そこからラインの電飾を放射状に設置するというのが流行りなようである。どの教会もほぼこの様式であった。長崎では司教からこのようなスタイルで電飾をするようにとのお達しでもあるのかと思ってしまいましたが、どうなんでしょうか?屋根に上る方は大変だと思うけど、何故かどの教会も頑張って飾っている。

本原はシックに電燈色の電飾でしたが他教会は様々。星の色が違ったり、ラインの色が違ったり。

長崎の浦上川をはさんで海に突き出した半島の先に神の島教会という古典的な長崎教会建築の美しい教会があるのだが、そこはさぞかし美しい電飾をしているだろうと思ったら、星は赤。ラインは電燈色という組み合わせ。どっから見ても共産党中国でよく見られる電飾にしかみえずクリスマスっぽくない。大丈夫か?と思ってしまった。赤い星はヤバイだろう。

本原教会の入り口にはこんなのも↓

ま・ここっとさんに教えていただいていた噂の列福式標語である。でかでかとしたスローガン張り紙である。これも共産党中国のようである。共産主義者はこの手のスローガンが大好きなんであっちこっちに張ってあるが、カトリック教会には似合わんよ。このスタイルは。つーか、ダサすぎ。美観をいちぢるしく損ねている。

どーも、日本のカトリック教会は美に対してあまりにも酷すぎる。中国には伝統として門扉に飾る春聯がある。お正月の時に飾るんであるが、あれみたい。しかし中国のこの春聯も廟などに飾られるものは装飾的で、ちゃんと環境に溶け込むような装飾にしてある。

この無造作な下品なシロモノをどうやら司教は教会に飾れとか命令したらしい。

文字しか信用しない、視覚言語を理解しない一定数の人々。例えば共産党時代のソ連とか中国に行って感じたのと共通する感性。唯物論的な感性だとこうなるのはまぁ当然だと思うのだが、カトリック教会ってのは唯物論ではないんで、これはないだろう。真善美の美をないがしろにしすぎもここまでくると、もういいかげん告解しろレベル。

とにかく昨今の日本のカトリックギョーカイの司教とか聖職者は美的教養の欠片もないのが多いんだが、まったくもって嘆かわしい。勉強のしすぎか余裕がないっつーか、感性を磨くのを怠りといいますか、そういう怠惰さは赦しがたい。少し、ビジュアル系萌えとかゴスな若者に鍛えられたほうがいいんじゃねーの?

で、長崎から帰る飛行機の中でこれ読んでました↓

ザビエルの見た日本 (講談社学術文庫)

ザビエルの見た日本 (講談社学術文庫)

解説を書いていたピーターミルワードはザビエル同様イエズス会士なんだが、自分の修道会の聖人を半分ぐらいこき下ろしている。霊的行為という側面のフランシスコ・ザビエルの愛に満ちた行いや勇気ある行動を評価しながらも、仏教に対するフランシスコ・ザビエル君の偏見に怒りまくりである。曰く、ザビエルは知的素養がないというか、美に対する素養がないので仏教文化のなんたるかすら理解していない!などと激しく怒りまくりである。つまり、仏教建築など素晴らしい美の結実を目の前にして、どうして僧侶達を駄目扱いができるんだ?!という怒りですな。ちゃんと僧侶と向き合ってたのか?とかそんな風に怒ってます。

かように無知から来る偏見で僧のことをこき下ろしているザビエル君に大変に腹を立てているのである。他文化を尊重もできない田舎モンめがと言わんばかり。流石、第二バチカン精神にどっぷりな方である。
で、ついでに返す刀で昨今の日本人の若者はあつかましいとか、西洋化しすぎて駄目な部分が目立つとか成金趣味的だとか怒りまくりで耳が痛い。まぁえらく頑固親父で、面白い。帰りの飛行機の中でこのおっさんの怒りっぷりがおかしくって何度も笑ってしまいました。

とにかく、おのが会の聖人すら批判、ばっさりと切ってしまえる会士がいるほどにイエズス会ってのは知的に優れているのが面白いです。

長崎は明治期にこの手の知的教養と知性を持った宣教師達がやってきて教会群を起こし、建設にまで携わり、長崎の信徒達に永らく愛され大切にされ、世界遺産に申請したいよぅなどと人々に思わせる珠玉の教会群を残したわけなのですが、残念ながら日本の聖職者にはそういった教養は伝えられなかったようです。少なくとも戦前生まれの司祭には上記のミルワード師のような方もいましたが現代は酷い。

聖職者レベルに文化破壊はなはだしい無教養が蔓延しすぎているのはなんとかしてほしいものだ。

かような怒りはわたくしがびじつ人間だからかもしれないと思っていたらIさんとこに集っていた信徒さんたちも同じような批判をしておられたし、あちこちで耳にする。どうもギョーカイ信徒の共通する不満なようです。あのスローガンもかなり皆さんに不評でした。スローガンそのものが悪いんじゃなく、「言語」というもの自体が持つ「押し付けがましさ」という性質があれでは悪目立ちしてしまうんですな。同じ言葉を書くにももっとデザイン的に考えて欲しいです。