「典礼の精神」ヨゼフ・ラッツィンガーを読む4

ロイターに強力候補と言われたラッチンガーさん。その本をぼちぼちとまだ読む。
ラッツィンガーは保守派と言われている。典礼には煩い。激しく煩い。きちんとした根本がなっちゃいないのが嫌いなのはドイツ人の性もあり、生真面目だ。しかし彼は第2バチカン公会議の時にはリベラルと言われていた。当時のドイツの神学大学はリベラル派の牙城であった。カール・ラーナーやハンス・キュンクなども同じ学舎にいたと記憶する。ラッツィンガーが大切にしているのはカトリックの根本を為し、カトリック教会がそれだからこそ普遍たりえたとい「秘跡」である。おそらくカトリックが伝統的に伝えてきた「秘跡」が阻害されない限り彼はリベラルなのだろう。しかし教会内において保守のイメージが強いのは、その根本自体を見失いそうな様相が往々にしてみられるからだ。
わたくしは個人的にヨハネ・パウロ2世体制の教皇集中型の組織はよろしくないと思っている。出来れば公会議主義に移行してもらいたいと思っている。ヨハネ・パウロ2世の任期の長さと彼のカリスマ、そして祈りをまず大切にした神秘家だったから持ったと思うが、もしそれほどの素養のない人間がなった場合どうなるのだろう?そういう懸念がある。
しかしもし、公会議主義であるならば逆に眼に見える普遍秘跡であるミサだけは、堅牢にならねばならない。秘跡秘跡と感じとれないような、あるいは國毎にまったく違う典礼が行われている状態では教皇庁がその仲介者にならないと持たない。しかし典礼が世界共通になるならば、逆に公会議主義でも持つ。そう考えるからなのだな。
どちらの体制がいいのかは判らない。ヨハネ・パウロ2世並の聡明な人物であれば、典礼の各地主義でもいけると思う。それは現場では活気があるように見える。しかし、トップが変った途端バラバラになる可能性もある。バラバラな組織で唯一繋ぎ止めるものがあるとするならそれはミサだ。ミサは2000年も続いて行われてきた普遍の存在である。その「伝統」性と普遍に存在する「神秘」をどこかで意識しない演出のミサでは横の交流が途絶えてしまう。
カトリック教会は、組織の教会だといわれる。それは批判の対象でもあるが。しかし例えば言語も習慣も違う土地で不安になる事というのはよくある。外国に長くいたりするとそういうのは辛い。そういう時、教会の門を叩き、言語は違うがまったく同じ作法を共有するミサにあずかる時「自分の家がそこにある」と感じて安らかになることがある。教会の共通言語のラテン語の歌などが歌われれば自分も共に唱和出来る。それによって言葉も違い、何を考えているかも判らない隣の人間が「家族」であると体感出来るのだ。そして聖体に預かる時、それは歓びとなる。秘跡を通じ「一致している。」というあの感覚は、完全に疎外され、孤独の状態でより感じる事が出来るのだ。カトリックの組織とは人間の作るものではない。神秘が存在するところに創られる。現代のカトリック教会はそれを手放そうとしているのではないか?表面的な横の繋がり。挨拶をする、色々な言語で話す、手を繋ぐなど、眼に見える繋がりには気を使うが、本当の意味での繋がりの体感を得る事には鈍感だ。神が介在した繋がりが希薄になりつつある。そうなるとそこをまとめる人間のカリスマが問われることになる。場合によってはカルト化する。人物に頼りすぎる構造は危険だ。ラッツィンガー枢機卿はそんな現場を懸念しているのだ。
ヨゼフ・ラッツィンガーはどうやら最近「ヨーロッパがキリスト教の伝統に帰ることを望む」書籍を出したらしい。ヨーロッパのキリスト教の伝統って?極東の私などには判らない。そんな欧州中心の思想について言われてもよく判らん。しかし、ミサがあまりにも各地で違う状況の中ではそういいたくなる気持ちもわからなくもない。だからその評価は「ヨーロッパにおけるキリスト教の伝統」の定義や状況がなにか判らないと評価出来ない。日本でも既に若い頃とではミサの歌も唱える文もがらりと変っているし、その都度慣れなくて戸惑う。他教会にいくと作法がまったく違うので戸惑う。子供の為のミサにうっかり出てしまうと何がなんだか判らない。普遍を身体で感じることが出来ない今の状況では「教皇」に象徴されるバチカンが堅牢であることに希望を持つしかなくなるのだ。そういうのは不健全だと私などは思うのだ。ラッツィンガー枢機卿がこだわるのは普遍に共有される神秘なのだろう。その点では安心感のある人物だと思う。(ただし教皇向きか否かは、また別の評価である)
で、ラッツィンガーは聖画像の話の中で、まず延々イコンについて語り続けている。彼はヨハネ・パウロ2世の公文書にみられる東方の霊性に通じたあの視点で絵画というものを捉えている。いったん筆を置くが、今回はイコンについて更に書ければいいと思っている。