無名性

・・・というわけで、時事脳の知的刺激はもういいので、芸術脳を活性化しようかと芸術周辺ネタでも書く。
人の脳味噌というのは色んなジャンルに区分けされていると思うのですが特化して鍛えないといけない時ってあるんじゃあるまいか?などと思ったり。
私の中では宗教脳と芸術脳はかなり近いんだが、これは祈りのメンタリティが、芸術の創作における啓示に到る作業に近い。もっとも芸術には外部的戒律はない。外部的な神学もない。倫理など等の狭義もない。しかし核には「普遍」がある。この辺りはかなり似ている。もともと美は神の側にあると考えられていたわけだし当然だろう。宗教でいうなれば神秘神学的なメンタリティを要求される。
ところで、中世の画家達はほとんどが無名であった。ルネッサンス期の画家ですらその画面に自らの名を記すということはほとんど行ってはいない。プラートのドゥオーモの壁画、ステパノ伝にフリッポリッピが名を残したとか、ミケランジェロピエタの帯に名を残したとか、そういう例外がルネッサンス期に生じはじめるのではあるが。もっともフリッポ・リッピは自画像をあちらこちらに埋め込んでいるのでよっぽど「俺が描いたんだぞ」ということを言いたかったんだろうけど。
しかし概ねは無名であり、中世の絵画などはほとんど作者名が知られていないものも多い。教会内に残る壁画だけでなく、装飾写本の挿絵画家も無名である。後世に名を残すということはあまり重要視されておらず仕事が来ればいい的な感じだったんだろう。有名なボッテガ(工房)の親方は引く手数多である。名声が上がれば遠くの地からも依頼が来るわけで。しかし聖堂内における絵画はあくまでもその目的は「描かれた絵画を見せる」ということではなく、典礼に沿うものであり、祈りの為の道具である。それらには描いた画家の思想ではなく、あくまでも教会の宗教的生活の中に埋没するものである。教会は神を中心とした一つの宇宙を構成する場であり、個人個人の発露の場ではない。
絵画は美術館に移動することによって、その役割を変えた。画家は哲学者として、個人的な表現者として、振舞うことになる。それらは個々に知的刺激に満ちてはいるが、しかしかつての中世の抑圧された美に比すれば饒舌過ぎて草臥れるときもある。教会に本来あるべきものだった芸術が、美術館の中に切り取られてしまった光景は寂しい。それはあるべき姿を奪われた虜囚のようなものだ。しかしそれでも尚、その絵が語り描ける祈りを共に捧げようとするなにがしかを感じ取ることは出来る。
日本にいるとなかなかこの手の目的のある絵画に触れる機会が少ないのが残念だが(京都や奈良辺りに行かないとなかなか出会えないし、絵画そのものがあまりないなぁ)ヨーロッパなんぞにいくと、クリュニー博物館とか涎なとことか、犬も歩けば古い教会に出くわすので、いい環境ではあるなぁ。
話が脱線したが、こうした画家の無名性というものに強く惹かれる今日この頃であるよ。