典礼美術

どうもルネッサンス期の美術というのは、教会の典礼的な筋からは外れ個人の思想の反映となっている。この辺りはラッツィンガーが指摘していた通りだ。ラッツィンガー典礼美術としての絵画なり彫刻なりを考えているので、どうもルネッサンスの画家達はお眼鏡に適うものではないようだが、けして信仰の為にならない絵画ではない。寧ろ多くを語る、その力強さはキリスト教精神の一つでもあり、例えば今日の多くの人々にとって、理解されやすい形で聖書の物語が描かれてはいるのだが。
ルネッサンス以降、バロックへと移り変わり、信仰に光と影が強調されていく、その芸術は確かに教会の教義に沿った形ではあるが。さて・・・。
しかし、教会芸術はだんだん衰退していっていると言っていいかもしれない。まぁ造る方は先立つものもないから仕方ないわけだが。同じ芸術でも音楽は未だ生きてはいる。教会内部でも音楽の話をする人は多い。しかし美術となるとあまり話せる人がいなくなる。歴史なども同じ。寧ろ無信仰の美術史家の方が興味を持っているので、そういう人と話をする。しかしやはりキリスト教美術を信仰の観点から捉えず、あくまでも現代的な視点での、宗教から切り離された個所での「美」の評価だったりする。私からすると幾つか挙げた芸術家はあきらかに信仰を持った人々で、その信仰を自らのうちにどのように位置づけていたか?どのように典礼的なことを考えていたのか?とか、あるいは信仰の発露として何を考えていたのかとか?などと考えてしまう。抹香臭い鑑賞ではあるなぁ。
しかし、それにしても日本では美術そのものが日常的ではなくなっている。コンテンポラリーな美術は、大衆芸術のアニメやゲームといったジャンルで生き生きとしているが、かつての美術というジャンルはあまり元気がない。信仰の場でも同じでその居場所がほとんどないなぁ。典礼音楽や、祈りの言葉について熱く語る人は沢山いるのだけど、聖像の美について語る人はあまりいない。祭壇の美について語る人はあまりいない。御絵として配られる聖画も「奇跡によって描かれた」などというのはすごく評価が高いが質は問われない。
けっこう情けないものがある。
カトリック教会で美術家であることがこんなにも寂しいとは思いもよらなかったよ。