異端審問

uumin3さんのところで、元オウム信者が有名ブロガーで、それを巡ってあちこちで議論が起きているという話を読んだ。コメント欄で私なりの意見を書いてみた。以下はそのエントリとコメント欄での記述。
○uumin3の日記
http://d.hatena.ne.jp/uumin3/20060314

# antonian 『キリスト教を棄教するというのは「神を信じない」かあるいは「教団から離れる」かどちらかでしょうが、前者は容易に出来ませんが、後者はまぁわりと切り替えようと思えば出来るでしょう。前者の「神の存在は自明である」という思考は「あの世はあるだろう」「来世で生まれ変わるだろう」と漠然と思っていることと同じで、それを思うのをやめろ。みたいなものですが、後者は人との繋がりを絶つにすぎないわけです。
オウムの場合の神学や教義というものがどんなものかは知りませんが、教祖がカリスマを以て人を集めるというのは同時代的にはとても危険であるし、それが終末的なものを望み、また演じようとしている思考性があるというのは、社会共同体としては不安な要素でしょう。終末的光景好きな人はオウムにかぎらず(ムーなんか読んじゃってる人とか)多いのですが、それが集団化し目的を持つ場合には恐ろしいこともある。中世の異端審問というのはそういうことで現代では考えられないような人権無視の方法で排除をされていったわけですが。その排除の方法は現代では批判されているわけですね。カタリ派の撲滅の物語ではカタリ派側に同情が集まるように。中には社会を脅かすような異端も存在したわけですが、現代では異端審問はやはり「悪」と考えられているわけです。
それなのに何故、我々は現代の異端と共存出来ないのか?そう我々は問われているわけです。
まぁ中世ヨーロッパの人々の気持ってのが、少々判りますね。怖い隣人に脅える。彼らが本当に無害なのか、害があるのか?など、時代を経ていかないと判らないわけで、同時代的なものってのはえてして見えない。
ただ、抜けたという人の表面的なことは信じるしかないでしょうね。キリスト教やめちゃう人もけっこういますが、まぁそんなもんか。という感じですし。結局宗教は内面の問題になっていくので、その領域まで行くと他者がどうこう言えるもんでもない。』
# uumin3 『ちょこちょこ諸方を覗いてみましたが、オウムと他者性を絡めて問題にされている方はほとんどおられない様子(見た限りだけのことですが)。朝鮮人虐殺の一節であれほど喧々諤々だったのが何か嘘みたいです。まず目の前の「他者」=オウムをどう捉え、どう対応するかというのが喫緊の課題だと思うんですがね。
おっしゃるようにオウムという社会の異端が、あまりにもあからさまに「危害を加える悪者」であったせいか、同時代の問題としては(抽象化して)考え難いのかもしれませんね。これこそ党派性などを捨象して「他者」の問題として考えるべきものだと見えるのですが…
私も脱会の言葉は(疑えばきりがないですが)信じるしかないと思います。そしてそもそも内面を罰することは今の社会ではできないのですから…。ありがとうございました。』

ヨーロッパ中世が暗黒だといわれるそのイメージツールには、悪名高い「異端審問」がある。宗教思想や宗教観が異るってだけで異端扱いを受け、厳しく弾圧される。殺される。火炙りにされる。とても怖い。
中世の異端というとカタリ派が有名だが、彼らの教義はグノーシス主義的な二元論者で、この世のものは悪と見做した。非常に終末的で、禁欲的。昨日紹介した性を排除したコミューンを造ろうとしたカトリック保守原理主義者みたいな禁欲主義。*)そして現世に存在するものを全て罪深いとする辺りに、或る種、現代のカルト宗教に通じるような思想がある。しかしまぁ別に反社会的な活動をしまくったわけでもない。思想的にちょいと暗そうなだけで。しかし彼らは一方的な教会からの弾圧を受け、やがて撲滅されることになる。気の毒な人々だ。だから後世の人はカタリ派の人々を悲劇の存在として見做している。同じ時期に中世ヨーロッパには様々な異端者が登場する。中には暴力を伴ったものもあり、有名なジャクリーヌの乱のロラード派は農民暴動と宗教思想が一致した為、危険な集団と見做され弾圧された。鞭打ち苦行者なども異様な人々と映ったに違いない。こうした異端審問の背景には、社会安寧を乱す集団を排斥する目的があった。その当時の施政者たる領主や教会が大衆の不満を生み出していたとはいえ、施政者としては秩序を乱す者は「悪」であった。しかし力を持たぬ弾圧される側にとってはそれは恐怖であった。

*)eireneさんからコメント欄でご指摘を受けたが、カトリックの伝統では「性」そのものを嫌悪するの
ではなく、あくまでも「性」は次世代を誕生させる為の手段で、性そのものを悪と見做していたわけでは
ない。カトリック伝統保守派はあくまでも性は家庭のものであり商品化されたり欲望の為の道具として考
えることを拒絶するだけである、
それに対し、カタリ派はこの世に存在する実体あるものは全て罪深いとする、肉=悪と霊=善という二元
論の立場に立ち、性もその悪故に忌避された。これは終末が間近に迫ると考えられていたからで、すぐ死
ぬなら霊的に生きようじゃあないか。ということなのだろうが、こうした終末論に傾きがちな思想が内在
的に危険なのはオウムの例を見ても判る通り。当時の教会は危険思想と見做した。

で、uumin3さんが紹介していたブログを読んでみた。
○404 Blog Not Found
http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/50414314.html
オウム憎んで人憎まぬために
→ここで描かれている光景は、まさに上記の異端審問の光景である。ここでは逆転してキリスト教会の信徒が弾圧される。
実のところ、この文を読んで恐怖した。それは切支丹を排除した歴史事実や当時の大名の理論が怖いというのではなく、このブログの執筆者が、切支丹をウイルスとして形容していることに。排除すべき病原体として形容していることに恐怖したといっていい。単なる修辞なのだろうが、宗教に対する憎悪(或いは恐怖)が端的に示された形容詞ではある。その形容に対し恐怖する。或いは歴史を説明する時の、弾圧されて当然なのだという現実の描き方に。
切支丹、つまり我々は病原体として認識されているのか?と、マイノリティとして、それは虐殺される可能性のある恐怖だなと。まぁそう感じたわけだ。
実を言えば、このブログ主のいう理論はよく判るし、現代においてはもう「異端弾圧」などという愚かな行為はやはりリスクは大きく、どのように折り合いをつけるか?といったこの弾氏の説はその通りだと思う。けしてこのブログ主が、弾圧を是としているわけではなく、単に施政者の理論を描いたにすぎないのもよく判る。つまり、文面に流れるいくばくかのものが、自らもまた異端として排除される可能性のある立場なのだということを想起させられたということなだけなのだが。
○愛・蔵太の気ままな日記
http://d.hatena.ne.jp/lovelovedog/20060318#p1
■[hoge]『ホテル・ルワンダ』を非政治的ベクトルから見ると「デュベ萌え」になるのだった
→愛・蔵太さんがホテルルワンダをご覧になっての感想

あと、これを啓蒙的な映画として見るなら「加害者の視点」で見たほうがいいんだろうけど(加害者にならないように、みたいな啓蒙はあるのです)、俺の場合は「ツチ族」、つまり「虐殺される側」の視点で見たほうが怖いので(正直言って、虐殺する側で感情移入できるキャラが皆無、というのもあります)、その視点で見てしまいました。虐殺することの回避は啓蒙的教育で何とか可能かも知れないのですが、「自分たちが何かの属性を持っていることによって虐殺される」ということが回避できない恐怖というのは、これはもう、ものすごく嫌な恐怖なわけで。

ある種の属性による虐殺って、ほんとうに怖い。
逆をいえば怖いからこそ他人にもそんな思いをさせるのはよくないことなのだと。まぁそういうことです。