偶像とはなにか?表現の自由とはなにか?

ヤフーのニュースをぼんやりと眺めていたらこんなニュースが目に飛び込んだ。

イスラム風刺漫画 各紙転載 欧州全土、騒動飛び火
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060204-00000009-san-int
反発に対抗? 「表現の自由」訴え
 デンマークの新聞がイスラム教の預言者ムハンマドマホメット)の風刺漫画を掲載した問題は日を
追って拡大の様相を呈している。欧州ではフランスなど各国の有力紙が「報道の自由」を訴えて漫画を転
載、各国政府も基本的に静観の構えだ。これに対してイスラム諸国の反発は中東からアジアへと拡大した。
パキスタンでは各地で批判集会が開かれ、世界最多のイスラム教徒を抱えるインドネシアでも首都ジャカ
ルタで抗議デモが繰り広げられた。
 【ロンドン=蔭山実】BBCテレビなどによると、これまでに欧州でドイツとフランス、イタリア、
スペインに続き、オランダ、スイス、チェコの有力紙が相次いでムハンマドの風刺漫画を掲載し、イスラム
教徒の反発に対抗するかのように「表現の自由」を訴える動きに出ている。
 仏紙ルモンドは社説で「民主主義では言論を取り締まることはできない」と訴え、イスラム教徒はムハ
ンマドの漫画に衝撃を受けても致し方ないとの主張を展開した。
 フランスのサルコジ内相は二日、テレビ番組で、検閲よりも風刺の行き過ぎの方が許容できるとの見解を
示し、仏紙の報道を支持した。ただ、仏紙フランス・ソワールでは騒動に火を注ぐ形となったことに内部で
批判も起こり、編集長が一日、更迭された。
 一方、独紙ウェルトは漫画に合わせて「欧米社会には冒涜(ぼうとく)する権利もある。イスラム教の世
界には風刺を理解する力はないのか。イスラム教徒の抗議は偽善だ」と主張、独政府は同紙の報道に「政府
が介入すれば、言論の自由を阻害する」と、事態を静観する構えだ。
 イスラム社会に広がっている不買運動をめぐっては中東を有力市場とするデンマークの食品会社が窮地に
陥り、ついに従業員百二十五人の解雇を検討し始めた。
 問題の漫画をノルウェーの新聞が転載したことで騒動はノルウェーにも及び、同国はイスラム教徒らの脅
迫でパレスチナ自治区での支援活動を停止した。
 デンマークではラスムセン首相が中東の衛星テレビ、アルアラビーヤで、対立を激化させないように関係者
に訴えている。
 昨年五月には、アフガニスタンの元タリバン兵らを収容している米軍基地で、イスラム教の聖典コーランを
冒涜する行為があったと報道されたことをきっかけに、アフガンなどで反米デモが起きた。
(産経新聞) - 2月4日3時32分更新

ご存知の通り、イスラムは偶像を禁止している。ユダヤにおいても同じであるが、イスラムの場合はそれが徹底しており厳しいところは肖像写真すら許されないところもある。なにも預言者ムハンマドに限らず、普通の人物の肖像すらダメだというのである。徹底した「偶像」の排除である。

これらを巡る問題として
・偶像とはなにか?
・公共における表現の自由とはなにか?(風刺について等)
・多様な価値の尊重の共存は可能なのか?
・欧州とイスラムとの政治的な問題とはなにか?
・・・・といったことが問題提起される。
●偶像とはなにか?
私自身は絵を生業としているし、人物像を描くのでイスラム社会の価値など糞くらえなどと一瞬思いたくもなるが、そもそもが私の宗教であるキリスト教の教典には「偶像を刻むなかれ」とある。キリスト教もまたイスラム教徒兄弟の宗教であるが故に偶像崇拝の問題は歴史を通じて多くの争点となった。今でもプロテスタント諸派は「偶像」を禁止しているところも多い。源流であるユダヤ教も厳しく像を禁止している。ユダヤから発生し異る宗教となったイスラムは更に徹底した像の排除を行い、なかには神や宗教に関わるもの以外の「像」すらも嫌う一派があるという。転じて、キリスト教では正教会はイコンという絵画は認めるが像は持たない。プロテスタントは教化の為の絵画を所持はするが祈りの為の道具としての絵画や像は持たない。ヘブライユダヤから発生した宗教のうちもっとも緩いのがカトリックである。これはもう「像」のダダ漏れ。聖堂にいけば山のように三次元の像(よーするにフィギア)と、二次元の像がある。こうなると「偶像崇拝禁止」の戒を持つ宗教とは思えなく、いいかげん過ぎ!十戒の破壊者と批判されてもむべなるかなと思わなくもない。
しかしキリスト教の場合、ヘレニズム思想を経て変容している。ロゴスは文字通りの文字だけではなくあらゆる形相と実体の問題として理解されていく。実際、私は書かれた文字も描かれた絵画も刻まれた像もそれらは「形相」「表象」においてまったく同列であると見做している。象形文字を持つ日本人にとっては判りやすいであろう。平仮名は音声原語の文字であり、漢字は絵である。「もり」も「森」もまったく同じものを指す。後者はあきらかに視覚言語、すなはち絵画なのである。
それゆえにキリスト教においてはやがてそれら「偶像」の問題は、異教的神、或いは「自分の都合のいいように神を限定してしまう行為」として考えられていくようになる。現世御利益的なものを認めない。神は永遠に語り得ぬものとして捉えられる。例えばプラトンイデアを完全に把握しきれない、人間はその投影された影のみを見て理解するとしたように、神は人間の知覚で把握しきれないものとして、それを限定させるというのはまさしく偶像崇拝であると理解した。勿論、これらの神観はイスラムユダヤにおいても同様であろう。しかし彼らは徹底して経典を字義どおりに捉える、その差異は結局「人としてこられた神」であるイエス・キリストという存在があるからであろう。神は自らを人間という肉体を持つ像として刻まれた。のである。
面白いのはこれらの像をもっとも積極的に取り入れたのが東方キリスト教会である。イコンという平面とはいえ、礼拝の中に積極的に取り入れられた。勿論それは礼拝対象ではない、あくまでも神と人を結ぶ道具に過ぎないのではあるが。反して聖人像やらイエスダダ漏れカトリック、つまりローマ教会は当初その積極性に反対し「教化に於いて有効である」と見做した。あくまでも教義を理解する為の道具、教科書みたいなものとして考えたのだ。しかし逆にそれが偶像崇拝行為から切り離されたが故に多くの像や絵画が誕生してゆくことになる。やがて大衆レベルにまでなると、もう像は拝む対象としか思えない状況となるわけで本質と異る現象も生じるのである。(この辺りは中世史の中でも面白いところで異教的なものを嫌う教会側となんでもありな大衆との攻防が繰り広げられていくのですが、まぁそれは話が違うんで)
とにかく像の氾濫は見ての通りで、ローマ・カトリック批判もむべなるかなである。だからプロテスタントのように像を持たないキリスト教が登場する。しかしその教派とても「教化」に関しての像はまったく否定しないのだ。子供の為の、或いはトラクトと呼ばれる販促物にしても、イエスの姿を用いているところがけっこうある。「偶像崇拝」に厳しいファンダメンタル(福音派)ですら「パッション」という映画を見て「偶像」の問題を持ち出すものはいない。上記に記したように「イエス・キリストは人としてこられた神」故である。
仏教でも原始仏教は像を持たぬものであったが、大衆仏教は日本の寺を見ても判る通り。僧侶は「像は像に過ぎない。」と考えるが、ばあさんは念仏を唱えながら像を拝む。大衆と聖職との溝というのはどの宗教にもある。そして大衆の為にあるのが宗教故に、それを否定しない。
イスラムの場合、特に経典を重んじ戒律を守る。寧ろ細かい戒律のそれがあるがゆえにこちらもまた大衆の琴線に触れるのであろうか。私はイスラムではないので判らないのだが、素朴な人々が常にアッラーを確認出来るツールとして生活規範への細かい規定や戒律が存在するのではないか?などと想像する。
しかしそのイスラムでも過去には多くの細密画が存在していた。マホメットの物語が絵になっているのだ。手元にその画集があるが、とても美しいものである。しかしここにおいてムハンマドは顔にベールを付けた人物として顔の表情までは描かれてはいない。これはモーゼが十戒を受けたのち地上に戻ってきた、あの出エジプト記の描写に呼応するだろう。神と出会ったモーゼの顔は光り輝くものとなり、人々は恐れおののき直視出来なかった。モーゼはその為に顔を覆ったとある。イスラムに於けるムハンマドはモーゼのごとき偉大なる預言者ゆえにその顔を直視出来るものではないとされるのだと推測する。それ故にムハンマドの顔は描かれてはならないのだ。
絵画表現に対して寛容であった時代から、現代はもっと厳しい原理主義的な思想が主流となっている。寛容であった時代ですらムハンマドの顔は書かれてははならないのに、それを風刺画として描くというのはイスラムの人々にとって冒涜に等しいものだと考えても無理はないのである。

*)このあといくつかの手元の資料を見たが、コーラン写本のいくつかにおいてムハンマドの像は、
あきらかにその姿を普通の人物として描かれているものも出てきた。イスラム社会においてもこれ
ら偶像の問題はどうも紆余曲折した来たようだ。イスラムキリスト教同様、多くの教派がある。
過去にはかなり緩い教派もあったようだ。

●公共における表現の自由とはなにか?(風刺について等)
ヨーロッパの反発は、「表現の自由」「言論の自由」から生じているようだ。偶像に関しての問題は無神経だからではない。寧ろ上記に記したような歴史経緯があるが故に一層、敏感であるだろう。
また、マスコミが率先して反発しているようにみえる。おそらく大衆よりマスコミの方がエキセントリックな反応を示しているのではないか?などとも思う。マスコミの言論は政体、宗教共同体、企業、あらゆる利害あるものから距離をとった自治的な存在として自負している。ことに欧州においては自ら「リベルタ」それも王権のみならず、教会からも「リベルタ」を勝ち取ったという自負があるゆえに、宗教に屈するというのは自己撞着に繋がってしまうわけである。しかし「宗教的価値を認めない」というのは或る意味「万民の自由」に反するという大きな矛盾を抱えてしまうことにもなるのだ。そのジレンマが今、多宗教国家にならんとする欧州で起きているということであろう。「我々の自由」とは本当に「自由」なのだろうか?と自問しているに違いない。
正直、政教分離、聖と俗の分離は徹底して欲しいと思う私などは欧州マスコミの反発に同調したくもなるが、同時に宗教者として、イスラムの人々が大切にしかも畏怖するものを冒涜するという行為は認めることは出来ない。
ここへ来て多くの他国のマス媒体が「風刺漫画を掲載する」というのは実のところ理解出来ない。文字だけで批判するなり、訴えればいいのに嫌がるものを更に載せるというのはこれまた違うのではないか?あまり紳士的ではない方法論に欧州のマスコミもなにかおかしな方向にいってしまっているのではないか?リベラルを標榜するがゆえに、リベラル原理主義になっちゃってると思うのである。
確かに「全ての対象は風刺され表現され得る」というスタンスは全てに対して平等である。だからこそ、その立場を貫くならば敢て扇情的にそれを訴えかける手法にでるというのは筋は通っている。筋は通っているが、それはそれをタブーとするものにとっては人権を侵害されるに等しい暴力となる。マスコミは自らがその暴力を敢てやっているのだ。という自覚があるのかは問われてくるであろう。自覚しつつ敢てやるのもまた一つの道ではあるが、それは悲しいことに「共存」とは対極にある。
問題となった絵をみつけたが、ムハンマドがテロリストに模して描かれている。こりゃアウトだろ。偶像崇拝云々の話ではないな。イスラム教そのものへの否定的な行為。暴力と受け止められても仕方がない。(まぁ、キリストもさんざっぱら酷い目には遭っているけど。)
●多様な価値の尊重の共存は可能なのか?
こうした問題を見ていると難しいといわざるを得ない。文化的、思想的なものの共有は難しい。多くの誤解を互いが少しづつ時ながら共存するしかないのだが、なにもしなくても他方が他方を侵害してしまうという例は枚挙にいとまがなく、ケースバイケースで対応するにせよ難しい。しかし難しいからといって諦めてはならない。互いに合意に達する線引きが求められるであろうが。一方のみが我慢するような状況ではいつか大きな反発が生じる。ただやってはならないのは挑発行為であろうな。コーランを焼くとか、日の丸を焼くとか、星条旗を焼くとか、石碑の日本人の名を消し去るとか、まったく罪のない市井の人に民族の出自ゆえに罵声を浴びせるとか。まぁよく考えたら色々ある。
宗教上では幾つもの種類の宗教を是とする「多元主義」「包括主義」というものがある。これはかなり過激な思想ゆえに自己撞着を起こしてしまう可能性がある。本来宗教、或るいは思想は、一つのものを軸として考えていく為に、完全な相対主義たりえない。メタであるというのは実は存在していない。何故ならば「メタである」という立場は既にメタではないからである。メタを採択した立場という限定されるものになるのである。それゆにに完全なる相対とは、結局、実体がない。一つの軸を自らがこのように持っているのだという相対化は可能であるが。
だから互いの軸となるもの、核となるものを寧ろしっかりもって、表象部分はなにか、妥協点はなにか?と模索していくしかないわけである。場合によっては完全な棲み分けが必要になるではあろう。
●欧州とイスラムとの政治的な問題とはなにか?
結局、この事件が大事になっていく背景には、自国の中に多数存在するイスラムの国民という新たな存在の問題画あるのだとは想像するが、こちらは海の向こう側ゆえにそのリアルな問題点はなかなか実感出来ない。欧州のマスコミの危機感にはそうした背景があるのだろうということだけは判るのだが。
ただ、かつてフランス在住のま・ここっとさんが指摘していたが「イスラムの人々は他の価値を認めない為に、いったん一つの要求を通せば次を獲得しようとする。」つまりあらゆるものは平等に批判対象となるがゆえに風刺画派全てを対象にする。ということが認められなくなると、次はムスリム批判はダメとか、どんどんエスカレートし最終的にイスラム的価値の国に染まるまでやめないであろう。ということだ。これはまた一つの懸念すべきメンタリタィではあるだろう。アメリカにおいてもムスリムは多数いる。例えばブラックムスリム達はどのような妥協点をもってそこで暮らしているのであろうか?日本にいる多くのムスリムもかなり穏健な人が多いらしい。彼らはどのように妥協点を見いだしているのであろうか?
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この処、近代ということを改めて考えることがある。ル・ゴフ先生を読んだからだけど、近代という価値そのものが胡散臭いというか、更には我々のいう処のリベラルっていうのは実は鼻持ちならない存在なのか?と自問自答する。近代が中世的な価値を「暗黒」とレッテル張りをしたように、近代は、或いは、現代のリベラルは宗教を暗愚なものとして低く見ているようにも感じ取れる。ぐりちゃんが指摘しているが、欧州マスコミはそのようなリベラリズムの傲慢さをどこかに持っているようにも見えるのだ。これは我が国でもなんとなく起きている現象ではある。マスコミは政体や宗教を、大衆の自由を阻害する権威として攻撃するが、しかし彼ら自身もまた権威となっている自己撞着がそこにある。教皇ベネディクト16世に関する報道でも、そのようなマスコミの傲慢さと相手に対する無理解を感じたことがある。自分が由としない相手はどんな手を尽くしても叩く。ことにヒトラー・ユーゲントネタを持ちだした手法などはいやらしい方法だとは感じた。タブロイド紙じゃあるまいし。とはいえそれがマスコミなのだから、大衆はそれからも等閑に距離を置く知恵を身につけるしかない。政治的権威、宗教的権威、情報的権威というあらゆるものを相対的に捉えておくしかないだろうが。ただ、まぁそうもいかない価値もある。
ことに今だ中世的と揶揄されるイスラムの社会が間違っているなどとは誰もいえないのだ。寧ろ近代思想という西欧のほうが異常かもしれないぞ。
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そういえば、手元にあるマホメットに関する本の中に五十嵐一氏が訳した著作があった。憶えておられるだろうか?かつてインド人、サルマン・ラシュデイが『悪魔の詩』を出したおり、イスラムの怒りを買い、当時の宗教的指導者ホメイニ師に死刑を宣告された事件を。ラシュディは危険回避の為イギリスで地下生活を余儀なくされたが、地球の反対側の我が国では彼の園本を訳したという罪で五十嵐氏は殺害されたのだ。

悪魔の詩 上

悪魔の詩 上

イタリアでも襲撃された翻訳者がいたが一命はとりとめた。五十嵐氏の殺害は当時の厳格派のイスラム社会においては歓迎されるべき朗報として伝わった。
こういう暴力を赦してはならない。しかし他方で、ムハンマドをあきらかに侮辱するような肖像を載せるというのもまた一部の人々にとっては耐えがたいほどの暴力であることも忘れてはならない。