受胎告知

降誕祭前ともなるとクリスマスカードが欧米辺りでは飛び交っちゃったりする。絵画なら三王礼拝とか聖家族、受胎告知の光景が選ばれる。キリスト教をよく知らなくともこれらの絵画を通じて聖書の物語をなんとなく知っている人も多いんじゃなかろうか?
その中の「受胎告知」について書いてみるよ。
受胎告知の光景は4福音書では以下の通り。
●マタイ
ヨゼフに告げられる主の使いの言葉。ヨセフは同居前に「聖霊によって身ごもった」マリアを離縁するかどうか悩むが、夢の中にみ使いが現れて「マリアを家に迎え入れるのを恐れるな。その胎内に宿されているものは、聖霊によるのである・・云々」と言いくるめられるのである。(以後、み使いは必ずヨセフに現れる。)
●マルコ
誕生そのものの記事がない。いきなり洗礼者ヨハネから洗礼を受けているイエスがでてくる。
●ルカ
マリアを中心とした描写で話が進むがイエスの誕生から幼少までの描写は一番詳しい。絵画の題材としてはこちらの光景を描くものが圧倒的に多い。マタイと違いマリアを中心として話が進んでゆく。また先行して洗礼者ヨハネの誕生が描かれていく。
ヨハネ
マルコ同様いきなりヨハネの洗礼のシーン。その前は延々詩文が続いたりする。

このように実は4福音書においてイエスの誕生を事細かに記しているのはルカであり、誕生における受難をヨセフを通じて書くマタイと、マリアを通じて書くルカとの違い、また成長までの細かい描写などもルカの特徴である。こうしたスタンスの違いは聖書学をやってる人に任せ、絵画の題材となったルカの「受胎告知」の描写を引用してみる。

さて、六ヶ月目に、ガリラヤのナザレという町の一人のおとめのもとに、み使いガブリエルが。神から遣わされた。このおとめはダビデ家のヨセフという人のいいなずけで、名をマリアといった。み使いは彼女のところに来て、「恵まれたもの。喜びなさい。主はあなたとともにおられます」と言った。この言葉を聞いて、マリアは胸騒ぎがし、このあいさつはなんのことであろうかと思いとどまった。するとみ使いは言った。「マリア、恐れてはなりません。あなたは神からの恵みをいただいたのです。あなたはみごもって男の子を産むでしょう。その名をイエズスと名付けなさい。彼は偉大な者となり、いと高きおん者の子と呼ばれます。神である主は、彼にその父ダビデの王座をお与えになり、彼はヤコブの家をとこしえに治め、その治世は限りなく続くでしょう」そこでマリアはみ使いに「どうしてそのようなことがありえましょうか。わたくしは男の人を知りませんのに」と言った。み使いは答えた。「聖霊があなたに臨み、いと高きおん者の力があなたを覆うでしょう。それゆえ、お生まれになる子は聖なる者で、神の子と呼ばれます。あなたの親戚エリザベツも、年寄りでありながら男の子をみごもっています。不妊の女と言われていたのに、はや六ヶ月になっています。神には、何一つおできにならないことはないからです。」そこでマリアは「わたくしは主のはしためです。おことばどおり、この身になりますように。」と答えた。そして、み使いは彼女から離れ去って行った(ルカ1:26−38・フランシスコ会訳)

婚姻を控えた箱いり娘のようなマリアのところにいきなり「主のみ使い」と称するナニモノかがやって来てトンでもないことを言い出すという場面である。マタイにおけるヨセフの苦悩の光景も合わせ、どーも不義密通の言いわけじゃねーのなどと評する人もいるが、疑ってかかるならどんな小説も面白くない。仕事を終えたあとに寄り道しまくった男の言いわけ物語、ホメロスの「オデッセイア」もそうだが、絵になる光景というのは脚色されてないと面白くない。だからこの個所を「姦通の言いわけ」で片づけてしまうってのも、幼い頃からだまされてきた自分が馬鹿だった的な後ろ向きな発想や、或いは2000年間無邪気に信じてきたことを貶めて溜飲を下げるようなただのルサンチマンとかとしか思えんので、あまり発想的には面白味がない。それ以上のものをあまり産み出さないというか。(そういう発想で小説ぐらい書いてみる人もいるかもしれないけど。それはそれで面白いかもしれぬ)
まぁいずれにせよ「伝承」であることには変わりない。「史実」は誰も知らない。「推測」があるだけである。そして「史実」と「伝承」がどっちが偉いとか、宗教ってのはそういう思考で語られるモノではないのでここでは「伝承」を正面から取り上げてみるよ。わたくしは歴史家じゃないし。で、この伝承をもとに「降誕祭の為の説教集」なんて聖書解釈が沢山あったり、美術作品とかが生まれたりしたわけですよ。
閑話休題
上記のルカの描写におけるマリアの心理を追っていくと面白い。
1・み使いがいきなり現れて祝福の言葉を述べるのでびっくりし、動揺している。
2・「ななな・・?ナニほざいてるんだ?こいつは???」といぶかしんで、とりあえず耳を貸そうと構える。
3・更にトンでもないことをいい出す、み使いに「ちょっとまて。ど、どういうこった?」と疑問を示す。
4・み使いのハイパーな説得(神の技は偉大なのだ)に納得する。
5・そのまま受け入れる。という言葉で締めくくられる。

いやはや、少々動揺しているとはいえ女性にとって(しかも一応処女)とんでもない提案に「神様は偉大なお方なのだ」で納得して受け入れてしまうという筋書き。素直というか。いいのかそれで?「あまりの申し出に動揺してしまいました。一晩考えさせて下さい。」とか「両親や婚約者とも相談しないと」などと言わない辺りもすごいであるよ。このあまりにすごい納得ぶりというか諦めのよさが以後、マリアを信徒の規範として受け止めるという発想となり、マリア崇敬にみる信心のあり方となっていくわけである。
手元に講談社から発行されたNHKの「名画への旅」のシリーズを本にまとめたものがある。フラ・アンジェリコの「受胎告知」から考察し、上記の5つのマリアの姿を絵画におけるマリアの描写から分類して見せている。その分類によれば、上記の光景は1・戸惑い、2・省察、3・問いただし、4・受け入れ、5・祈り。と分けられている。
1の戸惑いの光景は、例えばドナテッロのサンタクローチェ聖堂にあるレリーフやフリッポ・リッピの数多描かれた「受胎告知」のサン・ロレンツォ教会にあるもの、サン・ガルガーノの小さな礼拝堂にかすかに残るアンブロジオ・ロレンツェッティのシノピア(下絵)の描写などが代表となる。ロレンツェッテイのものではマリアは天使から逃げ出さんばかりであり。こういうのは他にもロレンツォ・ロットのすごい笑える「受胎告知」などもある。ドナテッロやリッピのものではマリアは立ち上がり、胸に手を当てて動揺を示す、或いは両手をあげ、驚きを示すポーズとして表現されている。
リッピの「受胎告知」
http://www.angel-sphere.com/gallery/image/Filippo1.jpg
ドナテッロの「受胎告知」の一部
http://www.fujiso.com/har11hp/pars123.html
ロレンツォ・ロットの「受胎告知」マリアのパニックぶりがなんとも。猫までびっくりして逃げている。
http://www.modjourn.brown.edu/mjp/Image/Lotto/Annun.jpg

2以降の「省察」「問いかけ」「受け入れ」「祈り」はどうもその違いは判然としないが、リッピとアンジェリコの絵で追うと・・・
http://www.navidadlatina.com/arte/plastica/anunciacion%20Lippi.jpg
・・のマリアは天使から百合の花を受け取っている。これは「受け入れ」の光景である。
http://easyweb.easynet.co.uk/giorgio.vasari/lippi/pic1.htm
・・・のマリアは「省察」と言ったところか?天使が解答待ち状態という体勢。
http://homepage3.nifty.com/kenkitagawa1/Angelico-annu-SanMarco.jpg
・・・有名なサン・マルコ修道院の壁画であるがこれは「問いかけ」であろうか?マリアの視点がまっすぐに天使に向けられている。
http://homepage3.nifty.com/kenkitagawa1/Angelico-annu3-SanMarco.jpg
こちらはサン・マルコの僧房に描かれたマリア。「祈り」とも受け止められる。マリアは天使より低く描かれている為に「謙遜」の祈りといった光景を表現したとは言える。

さて、私の守護聖人であるところの聖アントニオは優れた説教師であったらしい。一応教会博士でもある。幾つかの説教集が現代に残り、その中で「マリアのお告げの祝日の説教」なんてモノを書いている。この説教を読むとちまちまと新約の言葉を、旧約の言葉と関連づけ、事細かに説明するので実際にこれで説教されたら寝てしまうと思うのだが、どうも中世では人気説教師だったらしく、中世人の方が忍耐強いようだ。因みにクレルヴォーのベルナルドゥスの説教はもうちっとすっきりしていて読みやすいよ。だから本当は彼の説教を参考にしてみたかったんだけど、細かくオタクといっていいほど情景を分析しているのはアントニオ様でして、そのアントニオの説教と上記の個所を照らし合わせてみるよ。
1・戸惑い
アントニオは比喩的な説教に於いてこのガブリエルの到来という出来事を列王期の以下の言葉に比して語ります。

見よ。主の前に大きい風が起こり、山を崩し、岩を砕いた。
しかし、主は風の中にはおられなかった。
風のあとに地震が起こった
しかし主は地震の中にもおられなかった
・・・以下略(列王 上 19:11−12)

このあとの個所も含め天使の挨拶、マリアの戸惑い、聖霊の降下、受肉について比していくのですが、ガブリエルの挨拶「おめでとう、恵みに満ちあふれた方」というものを「風」として解説しています。風はプネウマでもあり、また霊的なものを象徴するので、天使の比喩として理解されるんでしょう。この風の中に「主がおられない」のはマリアのその後の内面的な手順を踏まえて、最終的に聖霊による身ごもりと受肉の神秘に到るということなわけでございますね。いやはやこんな調子で細かいです。アントニオ様。

1・戸惑い、或いは2・省察
ここで、アントニオはシラ書を引用する。

「彼女は控えめに戸惑い、祝福の前代未聞のかたちに思慮深そうに驚いている」・・
「すぐに人を信じるものは浅はかである」(シラ19:4)
控え目が弱さに陥らず思慮深さが恥知らずにならないように、控えめと思慮深さがみごとに混じりあっている。

・・・と、マリアの思慮深さを大変に絶賛しています。
しかし・・「すぐに人を信じるものは浅はかである」っていう辺りがラテン系というか・・・。

3・問いかけ
マリアが「どうしてそうしたことが起きるでしょうか。わたしは男の人を知りませんのに」という「問いかけ」ることに対し「どのようにして起こるのかと問う人が起こるべきことを信じているのはあきらかである」「彼女は、自分が心の中で男の人を知ることはないと誓った以上、神が他の方法を用いるしかないのだから、それはどのようにして起こるのか問うているのである」となんか良く知らない文書から引用していて、更にアンブロシウスの注解を引く

サラが神の約束を笑い、マリアが<どのようにしてそのようなことが起こるのでしょうか?>と言ったとき、何故彼女達はザカリアのごとく口が聞けないようにされなかったのであろうか。もっとも、サラとマリアも約束されたことが起こることは疑っていないが、その起こり方については訊ねている。一方ザカリアは知ろうともせず信じようともせず、自分が信じるために他の保証人を求めている。そのため彼は口が利けなくなるというしるしを受けるのである。というのは、しるしは信じる者にではなく、信じない者に与えられるからである。

いやはや、たった一言に対してすごい考察であるよ。さすがミラノの司教にしてラテン教父なアンブロシウス。
そういえば、パウロもいきなり目が見えなくなって回心するよなぁ。奇跡なんぞが起きるのは不信心の証拠だからだ。奇跡を有難がる風潮っていうのに釘を刺しているとも言えます。「しるしを求めすぎるのはよくない」とパウロも「コリント人への手紙」で言っているが、自分が痛い目に遭ったのもそう考えた一因であったりして。
4・受け入れ
この個所をアントニオは「聖霊の降下」と分類している。
絵画においてはこの「聖霊の降下」はマリアの腹に向かって光、或いは白い鳥として描かれる。
http://art.pro.tok2.com/Bible/AMariaStory/14Annunciation/criv.jpg
クリヴェリの不思議な構図の受胎告知、天から光がマリアに向かっているのが判ると思います。
アントニオの説教では比喩的な表現として1の列王記の詩の続きの中の「火」をあてて説明しています。

この火は処女のうちに降りてきて、彼女を恵みの賜物で満たしました。しかし、この火はまだ御言葉の受肉はありませんでした。なぜなら処女の同意を待っていたからです。というのは、いかなる人も、精神の同意によらなければ神を精神のうちに感ずる(宿す)ことはできないからです。同意なしに魂のうちにあるものは何であれ、人間を義とすることはできないのです。

こののちマリアの「祈り」がくるのであるが、「神を受け入れる」それには自らの意志を神に向ける(回心)という問題が関わってくるという信者側の姿勢のありかたをマリアを通じて説明するというマリア崇敬のキモでございますね。絵画においてのこの個所のマリアは無防備な弱き女性の姿として描かれている場合が多いですね。ふんぞりかえっているレオナルド・ダ・ヴィンチの「受胎告知」はかなり異質かもしれない。

5・祈り
このルカの個所は「わたくしは主のはしためです。おことばどおり、この身になりますように。」という祈りの言葉で締めくくられる。ここで「受肉」の神秘が成立する。とアントニオ様も言っておられます。この「なりますように」という祈りは「フィアット」という言葉らしいんですが、よく祈りの文句に引用されていたりしますね。私はどうしてもあの車のFIATを思いだしてしまうのですが。それはともかく、「主の婢」という自己の謙遜、「お言葉通りなりますように」という「謙遜」からくる祈りは伝統的にずっと大切にされてきたものです。

24日、25日へと変わる深夜、イエスが「小さくかよわい存在として」この世にお生まれになるという「謙遜」とこの受肉における神の母の「謙遜」がとても重要なようで、もうサン・ベルナールなども「兄弟たち、どうしてこのようなことになったのであろうか。どのような必要があって、威光の主がこれほど「自分を無にして」へりくだり、これほど小さな者となったのであろうか・・・・・天の神が幼子となっておられるのに、人間が地の上で尊大になろうとすることがあるとするならば、これ以上に無作法で嫌悪すべきこと、またこれ以上に厳しく罰せられるべきことがあろうか。」などと申しております。

上記、引用・参考文献

中世思想原典集成〈12〉フランシスコ会学派

中世思想原典集成〈12〉フランシスコ会学派

アントニオ様の説教が載っている。引用はここから。アントニオ様だよ。買って読め。
あとはフランチェスコの書き物は勿論、ヨアキムとかボナヴェントゥラとか、ロジャー・ベーコンまでいる。
中世思想原典集成 (10)

中世思想原典集成 (10)

修道院神学の巻。サン・ベルナールの説教が載っている。いいよ。
ギョームって変な名前の人も。アベラール様を窮地に追い込んだ人だ。

天上から地上へ
著者:太田泰人 樺山紘一
出版社:講談社 判型:A4  発行年月:1993年11月 ISBN:4061897756 
http://www.boople.com/bst/BPdispatch?ifc=4&isbn_cd=4061897756

アマゾンでは取り扱っていない・・泣)いい本なのに。

(以下続く)