バロック以降

バロック以降の宗教美術は正直これだという面白いのがあまりない。個々にはブレイクみたいなのとか、マティスの礼拝堂みたいのとか、ガウディのとか、コルビジェのロンシャンの教会とか、色々あるけど、教会主導のムーブメント的には面白いのがあまりないです。近代の熱狂が生んだルルドのようなものの周辺では美術的にはろくでもないのしかないし「俗悪。」とユイスマンスが皮肉っている。近代はカトリック教会が世俗に対し対抗的になるにつれて内向きになり、特に美術などに関しては過去の遺産にしがみついているかのごとく発展性が無くなってしまうかのようにみえる。つまりそれだけ世俗と断絶した意識があったのかもしれない。それは教会による中央集権化が進んだ性だからかもしれないですよ。
ルネッサンス期は腐敗などと言われるが、しかし勝手であった。芸術家が俺様絵画を堂々と造れるのは、或る程度の自由というか放置プレイ的な状況があったともいえる。放置プレイだから宗教改革も起きる。中世などの造形が生き生きしているのもそういう思想的精神的中央集権化がなかったからなんだろう。組織がしっかりしていけば伝達機能がはっきりし、自ずと精神的な中央集権化が進む。そしてたいていの時代「官製」ってのは、施政者のセンスがよっぽど面白くない限り、概ねはつまらなくないものだったりするわけで。もっとも近代は抹香臭くて内向きな教会より遙かに面白い活躍の場が芸術家にはあったわけで、良質の才能はそういうムーブメントへと向かうことになるわけだが。モダニズム運動とか。結局は時代の流れの問題に過ぎない。(たしかに近代啓蒙主義側も教会を対立者と見做していたわけで、頭ごなしにふんずけまくっているしで、まぁどっちもどっちと申しますか・・・。)
とりあえず、芸術に関しては個人のものへと移行して、聖堂は「××の作品」という観賞のされ方が為されるようになったりするのでございますね。祈りの場なんだけどその前に「作品」。主体が逆転していく。
ヨーロッパの旅では多くの聖堂を回るツアーなども何回か造ったことがある。信者はほとんどいない。というかまぁ美術関係者ばかりなんで。で、プロテスタント福音派の信者さんが参加したことがある。中世の教会を巡って、その祈りの空間に喜んでいらしたが、同時におびただしい石彫の聖像に「カトリック偶像崇拝をしている」などといわれてこけたことがある。まぁその人の立場からするとその通りなんだが、返答に困ってしまった。「この時代の人はこれでいいんだよ。」とかまぁそういう風に言うしかないわけですが。ただ立場が違うと色々な感想があるのでそれはそれで面白いとは思いましたですね。