キリスト教等に関する誤解再び

某ブログで「カトリックの一般信徒は旧約聖書を読まない」といった事が書かれていた。その前に「キリスト教徒は、イエスユダヤ人ということを知らない」ということも書かれていて、少々驚いた。なんだ?その都市伝説は???御迷惑になるのでこちらではやはり引用しないが、キリスト教にまつわる多くの都市伝説があるようです。コメント欄で議論となり、ブログの主さんには申し訳ないので、こちらに一応所感を書いておこうと思う。

実のところ、カトリックは寧ろ「聖書を読まない」といったほうが正しい。これは単に怠惰なだけというか、エヴァンジェルカルな聖書を中心とするプロテスタントと違い、圧倒的に聖書に関する読書量は少ない。エヴァンジェルカルなプロテスタントの方が縦横無尽に聖句を引用するのを聴いて、ぼけ〜〜〜っと圧倒されるのが旧教の人間であるよ。お、おまいらは聖フランシスコか????学者か??などと驚いてしまう。
実際、彼らの礼拝に出てみると判るが、聖書講座の程をなしている。礼拝中に、皆、聖書を方手に頁をどんどんめくる音がする。エヴァンジェルカルなプロテスタントの信者さんがカトリックのミサで聖書を用いないことにびっくりしていたりするが、無理もない。だからといって読まないわけではない。読むことは読む。しかし相対的にいって聖書と聖伝を大切にするローマ・カトリックをはじめとする旧教の人々は「プロテスタントに比べると読まない」ということである。
しかし「旧約聖書をよまない」という限定された都市伝説ははじめて聞いた。また「カトリック新約聖書を読まない」というすごい都市伝説を以前別のブログ徘徊中に見付けたことはある。どうも「カトリックはこうであって欲しい」という発言者の願望が含まれているようだ・そうでないと批判出来ないわけで幻想のカトリックを造りたいのだろうか?困ったことである。
昨日のエントリで「アントニオの説教がなんだか読みづらい」と書いたが。なんで読みづらいかというと新約聖書の記述をいちいち旧約に照らし合わせて解釈しているからで、なんでこんなにもしつこく旧約と関連づけているんだこいつは??と思ったら、どうも異端の問題と連動しているようだ。中世13世紀〜14世紀にかけて南フランスに多くの異端が出現した。この中には新約聖書のみを重視する人々もいて、そうしたあり方を「正す」為にアントニオはしつこくしつこく旧約を引用してくる。つまり「新約しか読まない」というのは中世のカトリックで異端とされていたわけである。
これについて吉祥寺の森の杉本さんも以下のエントリで少し触れておられる。

働くことの意味
http://blog.livedoor.jp/mediaterrace/archives/50322763.html

小林よしのり氏への反論であるが、小林氏のキリスト教に対する誤解から発展し、聖書についての態度を以下のように説明しておられる。

キリスト教においては、旧約聖書は絶えず新約聖書の記述と一対で解釈されることになっている。
同じようにその逆もそうである。専門的に言えば、

 「聖書が聖書を解釈する。」

 といわれる。だから、ミサでも礼拝でも必ず新旧両方の記載を一つずつ組み合わせて読み上げ、
説教に繋がっていく。どちらか一つだけということはない。しばしば気味の悪い新興宗教的キリ
スト教の中には、新約聖書だけしか使わないというところがあるが、そうしたやり方はごく初歩
的な間違いである。

上記に書かれた通り、まさしくアントニオの姿勢そのままに我々は聖書を理解する。

「イタリア人は旧約聖書を読まない」などという批判も見たがこれは流石にイタリア人が激しく怒るだろう。ウンベルト・エーコはイタリア人である。まぁ庶民は例えばユダヤ人と比較して読まないかもしれないが読まないわけではない。そもそもあれだけ街中に旧約を題材とした絵画や彫刻が溢れ返っているところなど普通ない。ダビデやユディットの物語、これらはフィレンツェの庶民に永らく愛されてきた。犬も歩けば旧約の物語にぶち当たる仕組みになっているよ。つまり「読まない」という言葉が指すものが「読まない=旧約を知らない」なのか「読まない=あまり触れない」「読まない=内容を理解していない」「読まない=書を読む習慣がない」などまぁ温度差もあるとは思う。

他にも「聖書を読むことを禁止されていた」などという批判もある。これは中世などを指すと思うが、まず中世は庶民にとって高価な代物であった。あのページ数である。羊皮紙である。羊ぶっ潰して造られる書物である。一冊で家が一軒建てられるような代物である。貴族すらおいそれと持つわけにはいかない。で、教会に行くと本日の聖書の個所なんかが開かれていたりはしただろうが、そもそも多くの庶民は文字が読めなかった。商業の発達とともに商人達を中心として「文書を読む」ことが発達していく。とはいえまだまだ高価な物体。庶民は聖書は手に取って読むことは不可能であった。しかし彼らは教会に刻まれた多くの物語絵などから理解していった。当時の教会は庶民にとっての聖書であった。
永らく禁止されていたのは「勝手な解釈を他人に説明する」ということであろうが、説教師は教会からの承認が必要だったようだ。フランシスコ会における初期の活動にもそうした問題に関しての記述は出てくる。アントニオなどは司祭であることをはじめ黙っていたのであるが「説教をして欲しいがだれか資格を持っているものはいないか?」といった時にはじめて名乗り出て、兄弟達にびっくりされている。まぁそれでも勝手な解釈をするものが多数出てきて異端の問題なども生じたわけだが、これらには司祭や司教レベルの人も異端にいたわけでして。そもそも庶民がそんなに真面目に教会や聖書のことを考えていたわけではない。「そんなことは坊主か学者のやることだ。」ぐらいの軽い気持ちの人のほうが多かったんではないだろうか?

「イエスユダヤ人であることを知らない」という批判もかなり乱暴ではある。ここで批判内容における前提がなにか齟齬があるのかもしれないが。この文脈は過去のキリスト教徒によるユダヤ人の迫害に結びつくようだ。「知らないから迫害したのだ」という結論が欲しいのかどうかわからないが、「知っていて迫害している」ということだってありえるわけで。(尚・・・悪いわな)前提となるこの命題がどのような基準で語られているのかは判らないが「ユダヤだと知っていたら迫害されなかった」ということはたぶんありえないだろうな。かなり乱暴だったキリスト教の歴史であるよ。「イエスは同朋のユダヤ人に受け入れられなかったすげー気の毒な人。ユダヤ人ってやなヤツ」という理解で考えている方が寧ろスタンダードだったのではないだろうか?これらは受難の光景の中に見られる描写によって触発されるだろう。だからこそ受難を題材としたパッションという映画に対しユダヤの人々が「あの映画によってユダヤ人は悪いヤツだと思われて嫌。」と批判するのも無理はない。

ここに注釈を加えておく。
我がブログをROMしていたヨーロッパ史を専門に研究している知人からメールで教えていただいた
ことだが、19世紀にドイツのプロテスタントを中心として「イエスユダヤ人としない」というこ
とが行われたらしい。
またナチズムの優性思想に関しては有名であろう。クロアチアなどもナチズムの影響は強かった。
論のやりとりの事情がよく掴めないのでどういう文脈かは判らないが、或いは「民族主義に拘泥しな
い」という意味での教えがあるかもしれない。という指摘もあった。
クロアチアのある土地は民族紛争がただでさえ多いためにそういう思想が教えられている可能性もあ
るがおそらく流れとしては前者のような思想があったという歴史事実を指すのであろう。

他宗教のこと、或いは他教派については私も知らないので批判する場合はかなり慎重になる。思い込みで書くのは無責任であり、誹謗中傷にも繋がりかねない。だから結局どうしてもキリスト教カトリックについての説明が中心となってしまう。そこしか責任が持てないからだが。まして他宗教に関することなど無知がはじめから判っているので恐ろしくて断定したり、批判は出来ない。勿論。幾つかの記述でも多くの間違いや勘違いをしていることもあるだろう。ご指摘戴ければ幸いである。