必然と偶然

二子玉川に行ったのは、某神学校の研究会にお出かけたからです。ここでは毎月一回研究会と称して中世研究をしている先生が自らの論文課題などを小出しに論じたりする会ですが、わたくしは別に学者さんではないので研究会における私の立場は、部屋の片隅にある鮭を咥えている木彫りの熊とかそんな存在。でも毎回面白いお話を伺うことが出来るので、ボケ防止にはすこぶるよいです。島にいるとこういう知的刺激が少ないので、東京という環境はまことにありがたいものですね。
で、本日の課題はヨハネス・ドゥンス・スコトゥス。この研究会には日本でも貴重なスコトゥス専門家が参加しています。それも二人。たぶん日本で専門的にスコトゥスを研究している人はこの二人しかいないでしょう。ですからすごい密度です。「存在の一義性」とかいうコムズな本をまともに読める人はそれだけですごいと思うのに、研究してるというのはわたくしにとっては人外魔境です。
スコトゥスは中世の神学者フランシスコ会の修道士です。
こんなひと↓

ヨハネス・ドゥンス・スコトゥス(Johannes Duns Scotus 1266?-1308)
中世ヨーロッパの神学者・哲学者。トマス・アクィナス後のスコラ学の
正統な継承者。アリストテレスに通じ、その思想の徹底的な緻密さから
「精妙博士」(Doctor Subtilis)といわれたフランシスコ会士。盛期ス
コラ学と後期スコラ学をつなぎ、スコトゥス学派の祖となった。スコッ
トランドのドゥンスで生まれ、オックスフォードとパリで哲学・神学を
学んだ。最後はケルンで教え、そこで亡くなった。主著として「命題集
註」が知られている。

思想
トマス・アクィナスと異なり、スコトゥスは神学を「人間を神への愛に
導く実践的な学問」であると考えた。また個物に本質を見出したアリス
トテレスから一歩進んで、存在が個物においてのみ成り立つ(「知性は
個をとらえる」)と考えたところにスコトゥスの思想の特徴がある。さ
らには必然的なものである自然と、必然的なものでない意思の自由をわ
けて考えたスコトゥスにとって、人間の幸福は(トマスが言うような)
神を直観することではなく神を愛することにあった。この考えは近代の
主体主義のルーツとなっていく。
Wikipediaより引用)

その神学を研究している一人は司祭ですが、もう一人はカトリック信者でもない、キリスト教信者でもない、哲学畑の方です。こういう哲学畑から中世神学を研究する方は少ないのですが、オッカム研究の清水哲郎氏などもその一人ですね。(彼のアプローチはしかし「聖書のみ」というプロテスタント神学の流れでもあり、聖書という一次資料を用いて研究するその姿勢はなかなかすごいといつも思う)
そのY先生の本日のお話は、「現代科学とスコトゥスの神学」ということで近代、つまりガリレオ以降の科学の世界と、中世神学のこの人について色々と云々しておられました。まぁ熊の置物並みの私の脳みそでは理解できなかったんですが、わたくしレベル的には、非常に興味深い示唆を二つ与えてくださいました。
1・科学の扱う分野は実は限定されている。
2・スコトゥスによると、必然の神学と、偶然の神学がある。

◆1について
ボアンカレというおフランス人の数学者がいるのですが、以下のように言っているそうです。

科学は、比較的単純に繰り返し生起する事実を選んで、その原理(法則)を見出す。
それによって、思考の経済(思考を省く利便性)を得るものである。→近代科学の
思考における利便性の追及は、近代経済の機械生産・流通等の利便性の追及と重な
っている。科学は世界の全体ではなく、一部に注目して研究しているのみ。

つまり、科学は前提とする世界をあらかじめ人為的に設定しそれにしたがって物事を証明していく。例えば「線分は無限の点の集合である」という前提から始まる幾何学とか、まぁそういうルールがまず作られていくということ。また、科学は必然の学問であり、予測可能な世界を論じるものである・・・がゆえに、偶然という現象に絶えず晒される日常における科学の領域は実は限定されているのだ。というコトだそうで。へぇ〜〜×12とか思ってしまいました。我々はその科学が導き出した予測可能な物事の証明から得られた恩恵によって科学というものを享受しているわけです。物理法則が必然であり動かしがたいものいであるがゆえに科学のもたらす文明は安定している。ということですね。
因みにY先生は「カントってガリレオのあとを追いかけているにしか過ぎない。」とか「科学は世界の一部にしか過ぎないことを忘れて、それを絶対化してしまっている哲学が近代哲学だ」とかすごいことを言っていました。(言葉は違うけど前述の清水先生も似たようなことを言っていた・・。中世やってる方の自負かも。)

◆2について
スコトゥスWikipediaにも紹介されているように、必然と、偶然(もしくは意思の自由)とを分けた神学を論じています。それは何かというと、十戒における三戒までとそれ以降との違いにおいての問題なのですが、
1・神の他に、なにものをも神としてはならない。  
2・神の名をみだりに唱えてはならない。                 
3・安息日を覚えてこれを聖とせよ。              
4・父母を敬え。                       
5・殺してはならない。                         
6・姦淫してはならない。                     
7・盗んではならない。                         
8・隣人について偽証してはならない。
9・隣人の妻を望んではならない。
10・隣人のものをむさぼってはならない。
見ての通り、4以降は人間の倫理に関わることです。トマス・アクイナスなどはこの十戒は必然であるがゆえに動かすことの出来ない絶対化されたものとして考えますが、スコトゥスはこの三戒までを神自身のものとして、四戒以降を「神の意思」と捉え、解釈において変容するものとして考えているようです。つまり立法的にそれらを唱えるのではなく事象が変化することによって神の意思はその事象に対しどう働くのかを絶えず考えねばならない。ということで「いつも耳をすませていなさい」という聖書の言葉を引用していました。
こうしたことは例えば教会法の解釈における「公平」という問題にも通じます。救済、あるいは目的というものと「福音」という問題から、教会法を解釈していかねばならない。つまりカトリック教会の法は懲罰の法ではなく生かす法とならねばならない。ということで場合によっては180度解釈が変わる場合すらあるというコトです。

・・・・・・・・・というわけで何故長々とこういうことを書いたかと申しますと、先日のwhiteowlさんのブログ批判と、whiteowlさんからそれに対する反論というか応答のエントリがあったことに対する、わたくしからの返答の枕なんですね。

http://d.hatena.ne.jp/whiteowl/20050719/1121734340
マジレスキタ━━━(゜∀゜)━( ゜∀)━(  ゜)━(  )━(  )━(゜  )━(∀゜ )━(゜∀゜)━━━!!!!!

・・・とか言われてしまいましたが、さらにもっとマジレスして見ます。
キリスト教に対する歴史認識の問題や、現状への問題については既に語りましたので、今度はwhiteowlさんがキリスト教というものになにを危惧しているのか?という問題に絞ります。
幾つかの認識に於いては、少しズレがあるものの、宗教がもたらす危険という点に於いて、スコトゥスと、トマス・アクイナスの態度の差というもので回答できると思います。

whiteowlさんが問題としているのは宗教の持つ原理的傾向「他者の価値を認めず、一つのドグマを信じる硬直した思考によって引き起こされる悲劇。」ですね。
まず、そのドグマはたぶんに教会政治によって左右される場合もあり、古くは聖書の成立や、信経の成立などに影響を与えました。一つのドグマは他のドグマをよせつけない。こうした固定された考えは当時のギリシャ教父達の叡智がぶつかり合った結果であり、今に名を伝える多くの神学者も、異端のレッテルを貼られた人は少なくありません。オリゲネスとかねぇ・・・。こうした現象はロゴスを戦わせるという性質によって引き起こされるものですが、まぁ、異端とされた人々も、別の教派を作り勝手にやっていたのがいつの間にか消滅してしまっったものもあるし、今も残っているものもあります。(単性説を採択するコプト教会などはその一つ)ある特定の教派の立場からするなら、例えばニケア・コンスタンチノープル信条を採択している全ての教派は(カトリックプロテスタント正教会も)異端となるわけで、お互い、違う世界でよろしくやっているという按配です。主流派と呼ばれる教会が目立つので色々言われますが、景教などもかなりいいところまでいき、現代のイスラム圏とか中国まで伝播したはずなのにいつの間に消滅してしまいました。(中国では唐の時代に弾圧され消滅しかけ、元の時代に盛りかえしたのですがその後また消えてしまいました)
しかしそうした教義のドグマは、神観の問題であり、今回の問題は寧ろ倫理に関わるドグマの問題であり、それは我々の生活圏に直接的に関わってくるわけです。昨今の宗教右派勢力、イスラムの問題、またカトリック教会の生命倫理に対する態度などといった問題はよくよく聞かれることで「多くの日本人が」懸念する一神教のドグマへの態度は確かに「どうよ?」と思うのは無理もありません。
上記のような疑念において、スコトゥスのような「偶然性の神学」という考えは、実は現代の様々な問題を論ずる場合に重要になるのではないか?という、まぁY先生はスコトゥスオタクなので、身びいき的にそういっていますが、しかし、確かに原則的に倫理神学を考えるならば、例えばラッツィンガー的な解答が果たして是か?非か?ということにもなります。ラッツィはどちらかというとトマス的な原則をまず大切に考えます。何故教会は中絶を認めないのか?というと十戒の「殺すなかれ」という前提からその理由が導かれます。しかしスコトゥスの示す「神の意思は何か?」というアプローチでは神の意志が十戒の示す意思と中絶の問題との関わりの中でどのようにあるか?という関係性のなかで、解釈という幅が生じますから「結論としてどのようになるか」にも幅が生じる可能性がある。つまり先のエントリで「ガイドライン」とわたくしが申したのは、そういうドグマとその解釈という関係性のことを言っていたんですね。
ただwhiteowlさんはキリスト教というものに主観的な固定された概念を持っていて、現実には多くのキリスト教徒には幅がすごくあり、日本の葬式仏教的な考えのクリスチャンもいるし、すごく原理主義的なのもいるし、合理的に物事を考えようとするクリスチャンもいるし、教皇のいうことにいちいち反論したくなるカトリック教徒もいるし、パパ様萌え。とか言っちゃってるカトリック教徒もいるし、何事においても多様ではあります。つまり現実に存在しない、批判するためのクリスチャン像をwhiteowlさんが創造しているために、批判に現実性を帯びてこない。そこが残念ではあります。ただ、キリスト教の一面には上記のようなドグマへの態度として、批判されて仕方ない面もあることは事実でしょうね。

・・・・・・・というわけで今回は更に・・
マジレスキタ━━━(゜∀゜)━( ゜∀)━(  ゜)━(  )━(  )━(゜  )━(∀゜ )━(゜∀゜)━━━!!!!!
・・・なエントリになってしまいました。
今回はuumin3さんやandy22さんの以下のエントリもかなりの収穫でしたね。
http://d.hatena.ne.jp/uumin3/20050719
http://d.hatena.ne.jp/andy22/20050719#p2

◆政治と宗教の関係
もう一つの問題はこれ↑でしょうね。
わたくしは聖と俗というのは切り離して考えたほうがいいと思う。つまり市民としての自分と宗教者としての自分の解答が自らの中で対立することすらある。という現象は存在するのである。しかし信者は宗教の論理でのみ動くという考えの人が多いことには少し驚かされる。わたくしは日本国民であり、辺境の島に住む人間であり、カトリックの信者である。こうした立場において同じ問題に違う解答が生じる場合がある。どれを優先するかはその問題が問われた場面において個々に変容する。しかしそれらを混在とさせてしまう人が少なからずある。しかし他者は特にキリスト教イスラム教の人間はその教義の論理で動くであろうという先入観を持つものが多い。
ところで、そういう図式を、例えばロンドンテロの場面などに於いて、敢えて戦略的に演出されてるんでは?と指摘している方がいた。

http://d.hatena.ne.jp/shojisato/20050721
そして、最も懸念されるのが、情報操作上の、「意図的情報の流出」である。一昔前
までだったら、権力側の「情報操作」は、ほぼ「隠すこと」で成り立っていた。「情
報隠蔽」を常套手段として、権力維持に腐心していた。だが社会の眼がいっそう厳し
いものになりつつある近現代では、権力側の情報操作手法における「隠蔽工作」は、
ほぼ元米大統領ニクソン氏による、ウォーター・ゲート事件を契機に、使われなくな
ってきており、その代わり登場したのが、「一部(情報)公開」による「擬似的情報
操作」手法である。例えば、イラク侵攻以降の「対米国テロ」の構図を、イスラム教
VSキリスト教という対立に重ね合わせようという意図が、権力側にはあるからだ。
具合が悪いのは、それを後押しするマス・メディアや知識人(学者・研究者・評論家
など当代活躍するオピニオン・リーダーたち)が少なくないことである。今回の、ロ
ンドン・テロ事件に際して、その懸念が、現段階でも生じている。それは、自爆テロ
4人組は、「移民」であること。英国籍でありながら出身祖国が、パキスタンである
こと。低い経済階層に属し、貧困地区に居住すること。イスラム教信者であること。
爆弾の仕掛けの手法が、スペイン列車爆破テロ事件に酷似している事、などである。

確かにイスラムの問題はアメリカのグローバリズムへのNOであり、例えばカトリック教会などは寧ろアメリカへの批判を加えてきた。しかし「イスラムキリスト教」の構図では、カトリックアメリカの陣営に組み込まれてしまうなぁ。わたくしはアメリカのグローバリズムがすごーく嫌いなので、困ります。(マクドナルドで食事をするとお腹を壊すというわたくしにとってファーストフードなどは食文化をぶち壊すとんでもない存在だなどと思う。が・・・・モスバーガーとかタマに食べたくなるのではあります。)
というわけで私などは政教分離で物事を考えますが、イスラムは一致している。しかしそれが悪いのか?というとそれも固有の文化であり、それを否定するのは彼らのアイディンティティを否定することになるとは思いますね。ただし、例えば現政権を支持するとかテロへの考えとかには、イスラム教徒もまた個々に大きく違う。イスラム教徒はすべからくテロを支持するなどと考えるのは愚かなことだが、まぁそう考える人は日本ではあまり居ないとは思うけど、それについて以下に指摘がある。

ベイエリア在住町山智浩アメリカ日記
http://d.hatena.ne.jp/TomoMachi/20050719 

アメリカ人て・・・・・。一部の人だろうけど・・・・。
とにかく多様な価値が存在する中で、まず自分自身もまた他者と違う存在ではあるというコトの自覚は大切なのかも。とは思います。迎合する必要はないが、存在の固有性を認める必要はある。存在否定はそれこそ一種の原理主義であり、全てを単一思想で多いつくそうとするグローバリズムでもあると思うのです。