これはひどい宗教誤解の一例

GIGAZINEでこんなのが

▼中東について知っておくべきほんのささいな10のこと
http://gigazine.net/index.php?/news/comments/20081126_10_facts_about_middle_east/

中東というとイスラム。現代世界で最も信徒が多い宗教なのですが日本ではよく知られていない。そういうわけでGIGAZINEさんが軽く解説してくれたのはいいんだが・・・

4:シーア派というのは、キリスト教でいうカトリックのようなもの
彼らは強力な聖職者のもと、教義を忠実に実行しようとしています。対してスンナ派プロテスタントのようなもの。彼らは、聖職者に対してよりも、神自身との、より直接の関係をたもとうとしています

あ?
たまに一部のプロテスタントの人がこういう誤解をしているのは見かけるんだが。をい。

カトリックは基本的に放置プレイなので、常は神と直接関係を保ったりせざるをえないのですよ。困ったことに。
聖職者と関係は持ちたくないな。ミサさぼりとかいわれそうだし。

まぁ秘蹟という問題が関わる場合に於いては聖職者がしゃしゃり出てはくるんだが、そもそもプロテスタントカトリックでは秘蹟の数も定義が違うので、こういう書き方すると誤解を招くかもしれませんし、その辺りの解説はじめるとえらく長くなるんで割愛。ま、日常で接する秘蹟なんてそんなないよ。基本的にはミサぐらい。

またシーア派スンナ派の違いは、カトリックプロテスタントほどの差はなく、創設者の血統がどうたらという、なにやら一聞するとお家問題的な感じがするような、つまりその後継者の問題が論点であり、互いに正当性を主張しているようです。それ以外はカトリックプロテスタントの差異ほどに差異はないとは聞きます。

後継者の正統性というとカトリックプロテスタントでいうなれば「使徒継承」という問題が近いと思います。

使徒であった聖ペテロの後継者としてローマ・カトリックはその正統を主張しますが、これに更に、首位権というものが絡んでややこしいのです。

使徒継承された教会は正教会を含む幾つかの聖書に記された教会でローマはその一つに過ぎません。そこでローマは俺様が一番偉いなどといいますが、他の教会も黙っちゃいません。特に中世初期は東ローマに位置するコンスタンチノープルが最も文明的にも先進地帯ですから、西のローマごときのど田舎なんぞが偉い面しようとしてるのは赦せないとかで、そのうちシスマしてしまいますね。
仲間はずれになったローマは単独で成り立っているので教皇がまとめ役になりますが、他の正教会は主教に従えだなどというと混乱するんで公会議を重視していくことになります。

それがまぁローマと正教会の教会システムのあり方の差ですがどちらもそれぞれが使徒継承であることは認め合っています。しかしプロテスタントは従来の教会システムを批判、それから外れ独自のシステムを持つことになります。ですから「使徒継承されてない教会」などとローマな人々はプロテスタントを揶揄します。まことに尻の穴の小さい話です。

プロテスタントの一部の人々は今も「ローマは神と信徒の間に聖職者を置いている」などとローマ・カトリックを批判します。宗教改革の側面にはカトリックにおける教会のヒエラルキアの機構の批判というのもありますが、この問題はむしろ聖書解釈の問題に関わります。

ローマカトリックは聖職者達を聖書解釈の専門家としての聖職者を持ち、信徒達が独自の解釈で読むことを禁じていました。確かに勝手に解釈するならば例えばオウム真理教のようなハルマゲドン妄想をするのまででてきてしまいます。ですから誤った方向にいってトンでもなヤツを生まないよう聖書解釈の専門家としての聖職者がローマ・カトリック教会の解釈はこうであるということを信徒に教えます。

しかし反面、こうした誘導は「教会の教え」という限定範囲を設けます。教会の教えにに即さない解釈を禁じることになり、これでは自由なアプローチを禁じることにもつながります。よーするに異端問題とかね。そういうのが生じるわけです。

またそもそもカトリック正教会は、「聖書」と「聖伝」を重視するといわれていて、慣習的に伝えられてきた伝統文化や聖人等、そうしたものも聖書とひっくるめて神から与えられたものとして大切にしますが、これも行き過ぎると変なのまで生まれますね。肥大していくというか、なんでもそうですが長い時間たつと色々余計ななものが付加されたりして肥大していきます。さらに聖書の前に先ず教会の教えがあるような感じですから、下手すると聖典たる聖書なんぞ知らん。読んだこともない。みたいな信者までいる始末です。

そうした余計なものを排除し、基本となる聖書に立ち返ろうという運動がプロテスタントの改革の一側面でもありますね。神のみ言葉としての聖書に向かおう運動ですね。ですからプロテスタント諸派は「聖書のみ」と立場を選択しているものが多いです。

もっとも現代にあって、カトリックが聖職者の仲介なしに聖書は読めないかというと全然そうではありません。勝手にみんな読んでますね。ただ「カトリックの教え」というガイドラインを教会は与えています。その範囲でやはり読んでいるので変りはありません。しかしこれはプロテスタントもそれぞれの伝統的な教えに則った一定のガイドラインを設けていますから、実は同じようなアプローチをプロテスタント諸派もしているわけです。

ですからどちらを見てもまぁわたくし的には聖職者というか専門家の指導の下読んでるのには変わりないじゃん。などと思います。

そういうわけで、「聖職者に対してよりも、神自身との、より直接の関係をたもとうとしています」というのは実態としては違うんで、なんだかなぁと思います。

それから「強力な聖職者のもと、教義を忠実に実行しようとしています」というのがカトリックの個性といわれても困りますね。

そもそもカトリックギョーカイを見渡すと「聖職者のもと教義を忠実に実行」していない駄目人間の集まりだとしか思えないですね。イタリア人とかな。勝手過ぎるのでなんとかした方がいいヤツが多すぎです。そういう風に忠実に守ろうとしないようないいかげんな人々ばっかりだったので真面目な方々が怒り出し、宗教改革を起されたわけです。

あと個性をあげるなら、外部に向かう敵意より、カトリックギョーカイ内での仲が悪いのが個性。足引っ張り合ってて困ったものです。修道会同士で仲悪いとか色々。

かような背景がありますから、シーア派スンニ派の差というのを説明するときに引用したような言葉で評するするのは粗雑だというか、粗雑ならいいんですがあまりにも実態が違いますんですよ。