列福式があったらしい

聖人の前段階には、福者、尊者とかいうのがある。聖人認定はその段階を経たりする。殉教者はいやおうなく聖人になるというのが初期教会だったが、困ったことに死して聖人になりたくて殉教したがる馬鹿なヤツが出てきて、教会は一応「教会が公式に認定しなきゃ駄目よ」ということにしたらしい。
そういうわけで昨日は日本で列福式が行われた。

わたくしは以前も書いたが、この件でギョーカイ誌に文章を書いたんだが、その後、これが出来上がって送られてきた後はすっかり忘れていた。今日になってガッコで上司の教授に「ふくしゃしきがあったんだってねぇ」といわれて、へ?となりました。
「ふくしゃ式」?
会社の入社式みたいなんだが、なんだろうと思ったら、ニュースでこの列福式の模様が流れたらしい。
列福にはあんまり興味なかったんだけど、普通のテレビでニュースが流れるってのは少しだけ嬉しいです。まぁ、「シューキョーの宣伝みたいで公共の電波にふさわしくない」とお怒りになられる方もいるかもしれませんが、神社の伝統のお祭りが流れるみたいなもんでお許しください。

まぁ、この手の聖人認定というのはたぶんに政治的というかそういうのもありますな。
過去日本の聖人や福者バチカン様がお決めになられていたので、日本のカトリックが独自に認定要求を出した第一号ということで、教会のお役人さんたちはちょっと嬉しいみたいです。しかし私としては「国家、民族的なものに縛られない教会」という感覚でいるので、日本独自の聖人とか言われても困ってしまうところではあります。それでもまぁ気持ち的には判らなくもありませんです。

殉教者に対することについては以前も書いたのですがたぶんに醒めているので、あまりどうって感慨もないです。

ただ、伝統としての聖人というシステムがきちんと機能しているのはよいことだと思っています。これはまぁ可視的な教会という、カトリックの視覚的文化に通じる、つまり視覚としての美というものを保持してきた教会の伝統、「人としてこられた神」聖体の秘儀、イコンや聖像を何故ローマカトリックは保持するのか?といったことにも通じる奥が深いものでもあります。つまりまぁ教義の奥義といいますか、簡単に説明できるもんじゃないですが「美学」というのを知る人などは判る感覚かもしれません。

教会というのは人の集合体であり、ギョーカイ用語でいうと「聖霊の働き場」であるんですが、それらを可視的に見せるものの一つが聖人というシステムなんですな。

もっともその選択はこれまたその時代の思惑という政治的要素が入り込むんで「なんで今更殉教者?」感を持つ人も多いようです。

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finalventさんのところでも取り上げられていたのでそのコメントでのやり取りに補足。

finalventの日記
http://d.hatena.ne.jp/finalvent/20081125/1227572819
■グロ〜ぉぉおおぉぉぉリア♪

finalventさんが中国様への思惑もあるのでは?と書かれていたんですが、バチカンとしてはそういう思惑もあって認定を出した可能性もあるかも。

現代、宗教弾圧をあからさまにしている国というと、異教徒を排外するイスラムはまぁその国家自体が単一宗教国家的なのでともかくも、やはり中国という国が挙げられるでしょう。世界で最も人口が多い巨大国家中国の動向をバチカンは注目中。
バチカンは中国との和解をかなり意識しています。また、急激に増えている中国内のキリスト教徒や、あるいは昨今に起きているチベット僧や法輪功教徒への弾圧への、一つの牽制球とも取れるのがこの「アジアの殉教者」の列福でもあるかも。
以前、前教皇のときに中国の殉教者を列聖しようとして猛反撃を食らったという過去もありますね。アジアでは他に韓国にも沢山の殉教者がいます。李王朝のときに弾圧されたようです。
ま、バチカン的にはアジアは最後に残された市場ですから虎視眈々と・・以下略。

で、もう一つの理由としては、日本の司教たちの思惑としては昨今の右傾化する日本への懸念ちゅうか、これはかなり内向きなギョーカイ内視点ですが、戦前のナショナリズムの中で敵性宗教として白眼視されたトラウマもありますんで、「権力者による信教の自由の弾圧」の被害者である殉教者というのはけっこうリアリティのある存在だったりしますね。
特に長崎では原爆を落とされた浦上の信徒への心無い反応、例えば「敵性の宗教など信じているから天罰だ等々」などという言葉を投げかけられたなど、差別的な扱いがなされた経験がありますから、根底にあるマイノリティとしての恐怖というのは抜き指しがたいものがあるとは思います。

こういう視点は、カトリック外の人々、特にマジョリティの日本人としては、不本意な感じがするかもしれません。特にマジョリティの無宗教を自認するような現代日本人は、カトリック教会に対する偏見めいた誤解などはありますが、それらは単なる無知から生じるものでありますし、敵意を持っている人は少ないといえます。寧ろまぁ単なる世界的な伝統宗教の一つとして捉えている方が多いでしょう。ですから杞憂してもなぁなどとは思います。

もっとも日本のカトリックナショナリズムを警戒するあまりに左翼方向に行ってる人が多いので、「靖国」というだけで反発する人も多く、特にまぁ60台とかその辺りの人に多いなとは思いますが、司教などもそういう世代は多く、そういう視点から捉えている人もいたり。色々ですね。

もっとも、殉教聖人という存在自体は以前も書いたように、ギョーカイ的には「神の救い」と切り離されるものではなく、世俗の現実などを超越し、普遍的なひとつの型としてあるわけですから、単純にそこに集約させて見るのがいいとは思いますね。
わたくしのようなものは大層ひねくれているので色々こねくってみてしまいますが。素人にはお薦めしない。