過激な恋愛論2

昨日のエントリで取り上げた小谷野敦氏のインタビュー。
上にかいた通り、もともとかなり前に雑誌に載ったものだそうでナニを今更・・・とご本人もぷんぷんである。

http://d.hatena.ne.jp/jun-jun1965/20060328
それにしても三年前に雑誌に載ったものを今ごろ議論されてもね。いかにある種の人間が本を読まずにネットだけで生きているかの証明だね。昔は「漫画ばっかり読んでると馬鹿になる」と言われたものだが、今は「ネットばかり見ていると馬鹿になる」と言わねばなるまい、て。

3年も前のインタビューをなんで今更、しかも本人に通達なしに載せるか?日経サイトもおかしなところだ。言論者の言葉は本人に帰するので、こういう処をいいかげんに考えている時点で日経ってトコも変なんじゃないか?もっとまともなトコだと思ったけど。結局こういうことが起きるとこのように本人への批判が生じるわけで、その辺りの言論者に対するいいかげんな扱いってのは出版ギョーカイ人として信頼出来ないでしょ。小谷野氏がやれやれと思うのも無理はない。
しかしまぁ、少し突っ込ませてもらえば、小谷野氏もこの議論をしている人が本を読まないと決めつけているのは火に油を注ぐとは思う。わたくしは雑誌などは(内容が浅いのが多いから)読まなくなってかなり久しいが、活字中毒なので本は読む。正直ネット上で読んでいる時間よりは長い。ネットの人の多くは結構本を読んでいる。私なんぞ読んでないなぁと思うぐらいのものすごくヘビーな本読み人が多い。ネットの大量の文字列を捌ける人ってのは、実は本読み人が多いんではあるまいか。わたくしはそもそもが興味が「ヨーロッパ中世」だったりするので現代社会のジャンルはあまり読まない。現代社会問題などついうっかり買ったとしても、例えば誰もが読んでるらしいネグリの『帝国』を途中でやめる体たらくである。なもんで特に日本の現代社会のジャンルには疎いので小谷野さんという人自体知らなかったわけだが。そういう風に、読書世界も棲み分けがあるんじゃあるまいか?
閑話休題
昨日、寡聞にも小谷野氏を知らなかったのではてなキーワード繋がりで他のブログを見に行った。そしたらすごくかんかんに怒っている人がいらした。
○NC-15
http://d.hatena.ne.jp/muffdiving/20060326/1143438349
■[馬鹿晒し]東大ってこんなんが教えてるのかよ?
→すごくお怒りである。そして掲載された文字列を一つ一つ批判している。お怒りの仕方がたいへんに丁寧である。
で、お怒りが昂じてついに「馬鹿晒し」から「キチガイ晒し」にグレードアップしておられる。お怒りのほどが知れよう。ちょっと面白かった。どうも随分前に学者先生はネット上の人と大立ち回りをされたらしい。まぁ先生はその名前で飯食っているんで実名の責任がそれなりに重いが。ネット上の人々はそれで食ってるわけではないので匿名だろうがなんだろうが仕方がないだろう。ネットでハンドルネーム持ってる人は一種のペンネームなわけだし。二葉亭四迷に「名を名乗れ。本名名乗れ。」と、迫ってもなぁ。・・と思いつつ読んでいた。
とにかくmuffdivingさんが一行づつ突っ込み入れておられるので、それ読んでいただくとして、私が件の記事に違和感を感じたのは、結婚と恋愛がごっちゃになっている所ですね。もっともインタビュー記事なので、小谷野氏の発言がどれほど記事に反映されているかは疑わしいので、小谷野氏ではなく、昨日載せた記事内容に関しての疑問ということで。
「結婚」は家庭共同体の契約。「一妻多夫制」というのはその家庭という共同体についての有様の話である。夫婦間の所有財産の問題や、子供の養育といった社会共同体の中の一単位の共同体の経済並びに運営責任の話である。「恋愛」などというメンタルな不確定要素は別次元の話ではある。キリスト教における結婚の秘跡の成立ももともとはそのような契約の問題であった。
イスラムのように一夫多妻を採択する所でも、その結婚における生活面での規定は厳しく、妻を平等に扱えない場合は罰せられる。キリスト教圏よりも厳しい法体系がある。よりどりみどりうはうは。というわけにはいかないのだ。その為イスラム社会の男性も奥さんは一人だけとする人も多いと聞く。制度としての「複数婚」というのはより複雑になるだけで、合理的ではないのだろうし、シンプルな方が財産分与の問題等にしてもなにかと余計な問題が生じにくいということからおそらく一夫一婦制が成立していったのだと思う。キリスト教倫理が先にあったのではないだろう。

また「非モテ」の殿方の福音としての人妻の解放などと申しておられるのだが、まぁ解放されてもその人妻はやはりモテ男の方に行くだけの話である。また、嫉妬の問題も女性の嫉妬ばかり取り上げておられるが、男性の嫉妬もすごいと思うぞ。私などは付合っていた方と別れた時に「いやぁ自由だ!!!!」と、嬉しくなったものです。
嫉妬、つまり「自分の方を向いて欲しい」というのは何も恋愛に限らず、例えば聖書においてもイエスの弟子達が「天にあげられたら先生の横に座るのは俺!!!」とかなんとか言い争っていてイエスに怒られるなんてのがありましたが、誰しも一番でありたい。だから不倫、複数相手を割り切ることが出来る人間というのは限られているだろうし、そういうのはもう結婚制度とは関係なく、別の次元で勝手にやればよろしい。それにおいてすら非モテ問題はまったく解決しない。よりもてる殿方に集中するだけの話である。
しかしまぁ・・・ま・ここっとさんが紹介してくれた変な浮気推奨サイト・・・。

http://promotion.yahoo.co.jp/charger/200603/contents01/theme01_02.php
「セフレ、本命、短期……それぞれ使い分けてますね。きっかけは、ナンパや合コンなど様々ですが、いまの状態を築くのに相当苦労しました」と語るのは、外資系企業の社長秘書を務める都内在住の市川小百合さん(仮名・27歳)。現在4人の男性と交際をしている彼女に、円満な浮気生活の秘訣を聞いてみた。
「男性の選定は、かなり厳しい条件をつけていますね。それぞれにタイプがありますから、それに合った男性を探す。他にも男性がいることで、嫉妬するような心の狭い人は論外ですね」

なんだかなぁ。殺伐としていて潤いがないように感じるのは、自分はこうしたいというのは見えても相手についての思いがみえないというか、とはいえまぁ結婚前ならこういう方法論もありなんだろうが、どうも殺伐としていてドラマティーコではない。つまり合理的な恋愛なんだろうが、美的に面白味がない。
なんともうしますか、同じ不倫でも、うじうじと悩みまくり結晶化する愛@スタンダールという感じでもなく、結婚までの品定めをしているだけだな。これは。
一人の人と生涯という旧来の結婚の縛りは、実は恋愛というよりは隣人愛の問題だったりする。恋愛という観点からならそりゃまぁ飽きたら棄てりゃいいが、共同体を営む相手との隣人愛というのは別次元ではあると思うのだな。それが出来ない人はハナから結婚しなきゃいいんだよ。恋愛だけなら同棲で充分ではないか。
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しかし、キリスト教文化圏の愛とはエロスの愛、カリタスの愛、アガペーの愛などがありますね。私の恋愛観はどうもカリタス度が高いために、結果としてお付き合いするという方向に発動され難くなってしまうという欠点があるようです。あと、プラトニックな精神愛などはどちらかというとアガペー度が高いのかな?聖なる存在として相手を見るわけで。
恋愛は自分だけでなく他者との関係性の中で見るものなので、自分がこれこれこのような状態が理想だといっても、なかなか不確定要素のほうが大きいとは思いますね。その不確定さが面白いわけで。リスク無き恋愛というのは上記に引用したセフレを持つ女性の恋愛観のようなものなのでしょうが、しかし果たしてアレは「恋愛」といえるんだろうか?セフレか結婚相手探索という非常に合理的な行為をしているだけではないか?などとは思います。いやはや恋愛というもっともリスクの大きそうな分野に合理性が入って来たって感じではありますね。
もっともリスクがあるような従来の「恋愛」観そのものも、スタンダール辺りのロマン主義者の産物ではある。
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恋愛論繋がりでみつけたブログ
非モテ女子の声
○ひとまずお休みだお( ^ω^)
http://d.hatena.ne.jp/utsutsu/20060328
非モテ女の声を聞いてほしかっただけなんで
→なんとなくけなげで可愛い。
その前にあった「高学歴女の彼氏探しは辛い」って・・・確かになぁ。大学の頃はそういう話題していた記憶があります。しかし振り返ると、同士愛ってのは恋愛に繋がらない傾向があるのかもしれない。特に殿方に関しては関係性が友愛に行ってしまうと、恋愛がし辛いメンタリティがあるかも。同朋とみなすと殿方固有の女性に対するよくある気遣いもなくなる。上方、下方の法則性以外にもそういうメンタルな要素ってあるかもです。この辺りは、殿方に固有なのか、女性でもそうなのか?私などは友愛でも恋愛に結びつくのですが、どうも殿方のメンタルに関しては判らないところはありますね。
あと、歳いったりするとまたその価値が変容する時もあるかもです。すっかり親父になった殿方達が「若い時はあまり感じなかったけど、やっぱり、話が通じる同年代の女性のほうがいい」などと言ってたりしたので、色々あるのかもしれません。
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木走さんもおっしゃっておりますが、「浮気ならそれなりの年代」ふむふむ。
成程。ある程度の年齢になると殿方もそういうのを求めるのかも。
で、件の先生もかような同世代の相手を望むに関わらず、「お!こういう女性は好きかも」な、お相手が大抵人妻で「不倫関係を結ばざるを得ないか?諦めるか?」という社会現実に、「それってどうよ?」な疑問を投げ掛けているわけでしょう。
しかし、この構図では、世の中には例えばこの私のように非モテで余っている女性もいる。その存在は無視されているわけです。つまりまぁ上記のブログの「非モテ女は可視的な存在ではない」ことになっているわけですね。非モテは幻想を抱くな。でも非モテにもおこぼれが欲しい。という自己撞着の構造が存在してしまっている。
・・・・・・・・う〜ん。なにやらこうなると先生のはすごく寂しい観が漂う主張ではあるなぁ。

ところでかつては政府公認の売春施設があり、中には知性に優れた高級娼婦などもいた。吉原、あるいはヨーロッパに見る高級娼婦とは、そのような淋しい人々にひとときの夢をみさせるいわゆるバーチャルな恋愛サービス産業だったわけです。そこに従事する女性達は才覚があれば王侯貴族とも対等に付きあえる。
これはまぁ昨日ぐりちゃんが紹介してくださったサイトにもありますが・・これね↓
http://www.geocities.jp/georgesandjp/articles/demimondepublichealth.html
ルネッサンス期のヴェネチアなどでも高級娼婦というのは独自のサロンを持ち、そしてサロンに集まる人々の知的交換の場でもあったりしたわけですね。以前も書いたことがありますが、明治生まれの祖母が「殿方は一人の女性に満足出来ない。ゆえにそういう遊廓は必要」と申しておりましたが、遊廓、芸者さんにしても花魁にしても高度な芸を身につけプライドは高く、例え貧農から売られた身分でも伸し上がることが出来たわけで。現代でいうなれば知的キャリアウーマンですね。
銀座のクラブのママさんにしても、新聞を丹念に読み、多くのお客さんの話題についていけるように鍛練していたりします。私のようなヤクザな商売の人間とも話を合わせる才覚があるのですから、すごいなぁと感心したことがあります。しかしそうした文化はなんとなく衰退しているような気もいたしますね。
プロの女性ではダメなのでしょうか?