ヘーゲル先生は過激

pataさんとこでずっと続いているヘーゲル先生を読むシリーズ。
今回は結婚に関する項。これが無茶無茶で面白いですよ。
○pataー本と酒とサッカーの日々
http://pata.air-nifty.com/pata/2006/05/11_c314.html
法哲学講義』読書日記#11

結婚において大切なこと何か。ヘーゲル先生の答はこうです。

 《大切なのは女が男を愛することで、それというのも、男は夫となるべき人、自分を妻にしてくれた人だからです。女には、自分の本来の値打ち、本当の価値は妻となることではじめて得られる、という意識がある。だから、夫は妻の裁判官であり、妻が夫を愛するのは、夫によって本当の使命があたえられたからだ、ということになる。その使命に打ち込むのが妻の仕事です》(p.329)。

 では男はどうなのか。《夫は妻よりわがままです。夫のほうが結婚生活に縛られることが少なく、その使命が結婚によって満たされることもなく、そこは妻とはちがいます。その点で、結婚について妻ほど関心をもたないともいえるし、自分の選択に大きな価値を置くともいえます》とあっさり。

うあぁ。こんなこと書いたら、ブログが炎上するかも。
まぁヘーゲルの時代は女性が仕事を持つっていう時代ではまだなかったわけで。「意識がある」というのは女性側にもそういう価値があったとそういうことなんでしょうが。
まぁ「馬鹿な男はいや」な文化系女子チェック項目ではないですが、私なども「自分より頭のよい男にしか魅かれないっす」「悩んだ時に道を示してくれるような頼もしい殿方が好き♪」なんてぇ固定的な価値感を持っておりますから、ヘーゲル先生鋭いですね。としか言いようがないです。

《肉体を捧げることで女は名誉を放棄するのに、男はそこまでは行かないか、そんなことはまったくないかで、その点、男女は平等ではない》《女の生きる場は本質的に結婚生活に限られるから、そこで信用を落とすと、男よりもそれが重荷になります》(p.335)、《女も教養を積むことはできるが、高度な学問や哲学や大芸術制作には向きません》(p.338)、《女は男ほどすぐれてはいないし、男の性格の大きさには及ばないともいえるが、一方また、男ほどわるくはなく、善か悪かの一方がどういようもなく固定される男と違って、善と悪がほどよく統一されているともいえます

女性が隷属的であることが自明の社会では「平等ではない」とか「そこで信用落とすろ男より重荷」とか実は女性の立場を判っているとも言えますね。あと、高度学問、哲学、大芸術向きでないというのは一見差別的にも思えるけど、実のところ少し当っているんでは?というのもスコラ学みたいなあんなぐにゃぐにゃしたへ理屈ばかりこねているような学問とか女性は向かないというか、えてしてブログなんかでも細かい言葉の定義の前提につまづき、そこから議論がはじまって延々終わらないのに男性が多かったり。逆に現実的なものへの分析では女性でも優れた人は多い、塩野七生さんとか政治的で「戦争」を理解するので男性的といわれるけど、女性でも充分そういう思考は出来る。要するに抽象的な形而上の言葉や理論を扱うのは苦手というかそういう分野になると主観的なのが多い気はしますね。アフォリズムに走るとかね。
あと日本の学究の場に女性が少ないのは単に物理的に女性がまだまだ研究を続けるには不足の環境があるから。結婚したら論文の姓名を変えなくてはならないとか。そうなるとそれまでの研究がパァになる。そういうのってどうよ?などというつまらない問題があったりしたけど、未だにまだそうなのかねぇ。こっちはフェミさんが頑張る場所でしょうね。

《人びとの反省力が高まってくると、結婚したいとしたくない、気に入ると気に入らないとが多様化してきて、みんなわがままになり、結婚による統一も、特殊な性格に左右されやすくなります》とちゃんと現代を見通している。

今はこういう状況ですなぁ。我ながら耳が痛いし。あと、非モテ問題にも通じるかも。

 意外なのは教養人は結婚に慣れるのが容易だ、と云っていること。結婚は相手に慣れる必要があるが、教養人は我欲とわがままを脱却した、共同的なふるまいをするから、というんですが、どんなもんなんでしょうかね。

ほんとに。どんなもんなんでしょうかね?
まぁ単に「知識がある人=教養人」ということではなく「家族」という共同体をどのように把握し考えているかという点で、家族共同体への責任感があるかどうか?家族内シチズンとしての振るまいが出来ているか?ということが教養人としての条件でもあるんでしょうねぇ。これは一方だけがそうでも他方がダメなら結局うまく成立しえない場面も多いでしょうけれど。昨今は「家族共同体」そのものを共同幻想と見做して解体させてしまう人も増えましたが、双方に上記のような家族シチズンの自覚がないとか、他方にしかない為に他方が我慢し続けてきたとか、そういうのが多いんじゃないかなとは思います。家族制度というのは生活するうえでの最低の共同体単位で、市民として次世代を育てる、先の世代の面倒をみる等を任されているということではありましょう。

ヘーゲル先生の過激な言論にムカっぱらを立てずに見直すと現在の社会が抱える問題も見えてくるかもなぁ。
とりあえず連載を引き続き愉しみにしています>pataさん