徳島大学セクハラ問題と魔女の鉄槌

いつもお世話になっているuumin3さんの処で以下の問題が議論されている。

教授が女性向けメールに「ハート」、セクハラで処分
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20060120i313.htm?from=main3
徳島大(徳島市)は20日、同大大学院で50歳代の男性教授が女性職員に対し、携帯電話で業務用
メールを送った際、絵文字の「ハートマーク」をつけていた行為が「セクハラ行為にあたる」として、
教授を懲戒戒告処分にしたと発表した。

 同大によると、大学院ヘルスバイオサイエンス研究部の教授は昨年1〜5月、特定の女性職員に対し
て携帯電話で送信した業務用メール約60通のうち、約10通について、1個から数個のハートマーク
を末尾に付けていた。文面は資料の準備や会議室の予約を指示する内容だった。

 女性職員から相談を受けて大学内に設置された人権調査委員会が教授から事情を聴取。教授は「女性
がはっきり『嫌だ』と言わなかったので続けたが、メールの反応などで嫌がっていると感じていた」と
話したという。

 同委員会は「不快感を与えていると認識しながら続けており、上司として不謹慎。教授という立場を
考えて厳しい処分とした」と説明している。

(2006年1月20日20時18分  読売新聞)

先ずこの記事を一義的に読むならば「場の読めない教授の馬鹿行為。ハートマーク連発ってナニ?キモ〜〜〜。でも、この女性の反応も極端過ぎ。過剰反応はどーかと思うし、こっちもキモイ。どっちもどっちですごくキモイ」などと思いたくもなる。
で、次に「これがセクハラに相当するのか?」という疑念が当然、生じる。
それを受け、uumin3さんが以下のエントリでご意見をアップする。

これ、セクハラなんですか?
http://d.hatena.ne.jp/uumin3/20060120
これがセクハラだとすると、何でもありに思えるんですが…
 背景に他の事情がないとすれば、私はこの教授の行為をセクハラ認定した徳島大学を「お馬鹿」だと断じます。
また、人権調査委員会に相談したという女性職員の方は、コミュニケーションに問題はなかったのでしょうか?
 報道でこれしか出ておりませんので、あくまで上記記事のみを材料として考えますが、これはいささか常軌を
逸しているのではないでしょうか?

 セクハラ撲滅という名の監視装置を勝手に妄想で作り出し、自分で自分たちの手足を縛る…これはもう典型的
なパノプティコン状況だと思えてなりません。怖い時代がやってくるかもしれません…。

まさしく私はこの御意見に同意するものであるが、そこにshojisatoさんが「ちょっと待て」と,異議を。

徳島大のセクハラは、あなたのご見解に不同意です。大学の見解を支持します。それは件の教授の「相手が嫌だ
と云わなかったから」という気付きの不在に対する覚醒の効果、そして自分の立場(大学という特に地方の旧国
大というアカデミズム内の)教授職と、一般事務との「権力関係の非対称」に対するあまりの鈍感さが、「相手
が嫌がっている」ことを意思表示させなかった前提にあることが明白だからです。また、この程度だから「戒告」
で済んだともいえます。それは、無処分だと、さらにエスカレートすることは目に見えているから、重大な先行
きへの不安が件の女子職員にあったと推察されます。こういう類は、プリミティブな段階で阻止するのが肝要だ
いう判断も大学側にあったというのが私の予測です。

その後いくつかのやり取りのエントリとコメントが続きます。

http://d.hatena.ne.jp/uumin3/20060121
http://d.hatena.ne.jp/uumin3/20060122

uumin3さん
ためにする反論ではなく、これは大学の行き過ぎがコミュニケーション不全を生みかねない、つまり殺伐とした
人間関係をもたらしかねないものに思えるのですね。
 確かに人間関係に鈍感な教授などという存在は掃いて捨てるほどいるでしょう(その逆に細やかな方ももちろ
んいらっしゃいますが)。ですがまず、為された行為を評価してみますと、それはメールの最後にハートマーク
ということで、これだけでは何ら実害を与えることができないものだと思われませんか?(後略)
shojisatoさん
uumin3さんの観点は、処分を受けた教授と同じ目線のようですから、あなたも「セクハラ」
予備軍の可能性が大といえるかもしれません。あなたが庇うときに用いる「教授」の気持ちは、一般論で言うと
ありえるでしょう。問題は、そういう「潤い」だとか、「おちゃめな自分を表現したかった」「やっと覚えた技
術を使いたかった」というのは、勝手な教授の一方的な「気持ち」であり、そういう気持ちが成立するのは、双
方の関係が良好であったり、相手が合意している「双方向性」を前提として初めて成り立つものであるのは、今
やどの大学の「セクシャル・ハラスメント」対策のテキストの一項に記載されている常識ですよ。ハラスメント
の定義をもう少し丁寧にお調べになられたらいかがでしょうか。女性の心証だけで「セクハラ」は成立します。
ただ、処分は、それ以上の材料があったはずです。長期間継続した、なども処分対象なるべき構成要件を形成し
たと見て差し支えないでしょう。ついでながら、「ストーカー」を想像してみてください。たいていのストーカ
ーの自己弁明は、あなたが先の教授を庇った際に用いた「教授の気持ち」と、ほぼすべてが重なるとお思いにな
られませんか?蛇足ですが。。(後略)
uumin3さん
私が最初に一言ニュースに添えようと思ったのは、何か社会的風潮(あるいは圧力)によって人々の集団が自主
規制をはじめ、その自主規制が一人歩きして世の中が不自由になるかもしれないということに対する危惧でした。
それが善意からのものであれ、そういう自主規制の風潮はちょっとファシズムを思わせないでもないからです。
でもよく考えてみると、この風潮(圧力)には社会(もしくは社会倫理)というものも関わっていますから、
最初に考えたより根が深いということに気付かされました。(略)
私にはどうしても女性の側片方の心証だけで「裁く」ようなことはまずいと思われます。
shojisatoさん
今回の大学教授に処分が下ったセクハラ事件は、「環境型セクハラ」のひとつとしてはやや軽度で
ありながら、典型的だろうと思います。この件、97年改正の均等法21条がはじまりで、98年に「セクシャル
・ハラスメント人事院規則」に指針があります。それらをお調べに成られたり、あなたが入手しやすいどの「関連
テキスト」にもおそらく出ているだろうと思いますから、まずは基本概念の整理をしてから自説を重ねられたら良
かろうと思います、思い込みを再三述べるのではなく。環境型ですから、あなたに限らず、私も誰もかれも可能性
があるという意味で、決して個人攻撃ではありません。私の指摘は、大学教授と同様なご意見だと、同様な行動を
取られる可能性が含意された為、それならば、あなたもそのような「対象」として扱われますという、あくまでも
老婆心からです。(略)
この記事にある内容だけでも、大学の措置は日本の旧国立大学にしては俊敏だったろうと思います。理由は、断定
が早かったというより、該当教授は「その事実を認めた」ことと、もし訴えを放置すれば、事業主の配慮義務に問
われかねず、それを回避する為と私は理解しています。
uumin3さん
このような反応を示される方が増えるのがやはり私には憂慮されるんです。おっしゃる環境型セクハラというもの
はケースバイケースで誰かの判断を仰がざるを得ない類のものですから、とても自明のものとは思われません。に
も拘わらずあなたは確信をもってセクハラだとお考えですよね。これが、いつの間にか雰囲気を形成して「罪」の
認識が作られてしまう事態の典型に見えるんです。
セクハラの定義がもし被害者側の心証だけで成立するとお考えならば、私にはそれはおかしいというほかありませ
ん。
(略)
非常に定義があいまいなこの環境型セクハラなるものの浸透は、裁判というものを妙に忌避する(体面を繕う)諸団体の気持ちを利用した罪の既成事実化、という面があるように思えてならないですね…。

以上のようなやり取りを目に致しまして、う〜ん?とわたくしも考え込んでしまいました。
いくつかの点において、それぞれが描いている光景に先ず差異がある。これはuumin3さんもご指摘していることで、事件に対する心証が違う。uumin3さんはセクハラの定義としてこのようなものはどうなのか?という問題が中心となっている。shojisatoさんはアカデミズムの現場における教授のふるまいとしてこうした行為は如何なものか?という問題が中心となっている。問題点にずれがある。
さて、先ずこの記事の情報量が少なすぎるために一義的な情報のみから以下の問題が浮き彫りとなる。
1・ハートマークを業務メールにつけることはセクハラか?否か?
2・嫌がっている相手に再度送り付けることは是か?非か?
3・嫌な場合の対応として人権委員会に訴えることは是か?非か?
4・このケースに対する大学側の応対は是か?非か?
という問題が挙げられます。
こうした問題は物事を今後判断していく場合における一種の「判例」となる為に慎重にならざるを得ないだろう。そしてまずもって第一の「セクハラの範囲はどこまでか?」という議論が為されない限り2以降の問題も論じることが困難になる。何故ならば2以降はまさしく1において成立するものであるからなのだが。
物事の基準を単なる「不快感が生じている」という主観において判断されたこの事例ではあるが(背景にもしかしたら公表出来ないこの教授のもっと愚かな行為が累積されているといった可能性はこの際、度外視する)そのような個人の不快感はどこまで公共的な権利として成立するのか?という問題を投げ掛けると思う。
これにおいてはたかだかハートマークの羅列ごときにぎゃぁぎゃぁ言う女性職員の方が過剰反応しているとしか思えない。そもそも上記にある「環境セクハラ」とは「エッチな写真を職場に貼ってある」「エロ本が職場に放置してある」「未婚女性にしつこく結婚しないのか?と聞く。」「お触り上司」「職場でエロ話炸裂」「お茶くみの強要」等で、まぁよくありがちな判りやすいものです。
私も学生時代だった頃、バイト先の上司のおっさんに飲み会ののち「家まで車で送ってあげる」と言われ、その車内でエロ話(しかも獣姦ネタ・・_| ̄|○)を延々されましたが、その話の内容に感心するふりをしながら客観的に評価を加える、精神分析を行う等、すこぶるエロ臭くない空気に持っていって、最後に萎えさせた。ということがありました。男はエロな気持を萎えさせるに限る。変に嫌がると相手の血中エロ度が上がる可能性もあるし。
まぁ昔はこの手のセクシャルハラスメントは自力で回避するしかありませんでしたね。まず大人の社会人だからと信用して車に乗った自分も馬鹿だったが、とにかくセクハラなどという言葉自体がなかった。エロ盛り上がりを見せる相手のプライドを傷つけずにどのように交わすかという手法を身につけるしかなかった。しかし現代はその点では女性にとってよい時代になったものです。「そりゃセクハラですよ」と相手に言えば済む場合も多くなりましたから。
場を読まないハートマークというのはただの馬鹿モノですが、そのレベルごときでセクハラなどと言われたら困るというのは、セクハラが意味する社会的な重さの問題なんだとは思います。その重さに相当するのかどうかの基準がこれが曖昧で、判りづらい。主観に頼る「印象」の問題だけに人によって垣根が高かったり低かったり。わたくし的基準は獣姦ネタごときではかわせるので範囲に入らない。しかしこの女性はハートマークすら笑い飛ばせない。これはもうそれぞれの基準値が違うのでどっちが正しいとも言えないわけですが、わたくし的には、もし入るなら立場を利用した性の強要ぐらいでしょう。脅しを伴った姦淫行為ですね。
ただここで問題なのはその「立場」でしょう。shojisatoさんはそこに着眼している。「立場が上のものだからこそ赦されない」という前提がある。ここでは多少、上にいるものは上にいるだけで罪深いのだ。という階級闘争的価値を垣間みてしまうんですが、2のケース(嫌がっているのが判っていてやった)において、教授の無意識の傲慢さの現れなのか、男としての純粋なラブラブな片思い、あるいは人間関係を円滑にすると思い込んだ情けない判断なのかも判らないので判断のしようがないわけです。
ただ、上にいるものは上にいるだけで罪深いという、金持ちは金持ちであるだけで罪深いとか、なにかそういう視点で物事をはかられる。或いは弱者は弱者であるが故に無罪である。という理屈がおかしいのと同様、そこに問題のずらしを感じてしまうのですね。
確かにアカデミズムの現場には教授ゆえの無罪がまかり通っている場面もあることは想像出来ます。これはたとえばわたくしのギョーカイである「教会」にも言えることで「神父の我儘は許されるが、信徒の我儘は許されない。」という空気がある。司教は弱音を吐くと人は「弱さに共感出来る」などと持ち上げるが、信徒が弱音を吐いても当然と見做され揚げ句には「第三世界の人の苦しみに比べるとあなたの苦しみなど」という輩までいる。正直アカデミズム世界より酷い。こういう場でセクハラ事件(どころか結婚出来ない職場なので、恋愛沙汰というだけで事件となる)が起きると、神父をかばう信者が多く、被害にあった信徒が悪口を言われ、いたたまれなくなるということもかつてはあったようだ。こうした事件の具体的な事例を私はいまのところは知らないが。
例えば、これは身近で起きたことだが、或る神父を巡る恋愛問題が起きた時、口さがない教会雀はあたかもその女性信徒が諸原因のごとき話をする。神父達は逆に同僚に対し評価が厳しい。しかし双方向の問題ゆえに責任は両方に或る。まぁ恋愛問題ごとき罪ではないが、セクハラなどという一方的な場においてはあきらかに悪いのはその行った本人だ。立場によって評価の重さが変るってのはおかしいことだ。これがエスカレートするとボストンの神父による幼児性愛事件問題のごとき光景すら起きてしまう。これにおいてshojisatoさんが描く危惧というのはよく判る。罪或る人間をかばう組織的風潮はあってはならない。
しかしこれはあきらかに罪があるという前提で成立する問題で、このケースの場合はやはりセクハラの定義が先ず第一に議論されねばいけないと思うのです。
◆◆
さて、第一にshojisatoさんがこの事件から読み取った「それは件の教授の「相手が嫌だと云わなかったから」という気付きの不在に対する覚醒の効果、そして自分の立場(大学という特に地方の旧国大というアカデミズム内の)教授職と、一般事務との「権力関係の非対称」に対するあまりの鈍感さ」という問題について、教会の事例を挙げました。たしかに自覚無き「偉い人」は困りモノですね。今、ジャック・ル・ゴフ絡みで何故かご飯を食べるときの読書に「薔薇の名前」を読み返してますが(キアラ・フルゴーニュの本はインクが胡麻臭いので風呂に入る時に読む)丁度今朝は、厨房の助修士と女性が異端審問官ベルナール・ギーに取っ捕まったところです。農民の貧しい女性には弁明の機会すら与えられず、一方的に魔女と決めつけられ審議もなしに火炙り直行ですが、男のほうは修道会士に連なる立場ゆえに審議(と言っても拷問付きだよ・・・・)がされるという光景でした。まさしくshojisatoさんが批判する力あるものの傲慢さがカリカチュアライズされています。
しかしまぁ・・・旧国大だからとか大学とか関係なしに、どの職場においても日常でもあるわけで何故「大学だから、旧国大だから」ってのもよく判らないんですが、そこにも差異があるのでしょうか?逆説的に或る種の権威を特別なものと見過ぎている・・・と、いささかの疑問を含みながらも、「魔女狩り」の光景というものを捉えてみたいとは思います。
◆◆
西洋中世といえば「魔女狩りモンティ・パイソンの「ホーリィ・グレイル」でも魔女裁判が出て来ましたが、伝承における魔女裁判もかなり愚かで魔女かどうかの判断基準が「水に浮く」とか「黒猫が家にいる」とかだったり、「魔女は野菜を枯れさせる」「魔女は子供を呪い殺す」とかまぁそういう理由で、歳老いた独身女性なんぞがやり玉に挙げられたりしたわけです。社会共同体で立場が一番弱いものに攻撃がゆく。なにか問題があると社会共同体の厄介者にしわ寄せが生じる。これら原因は大衆の無意識の恐怖が為せるものも多かったし、訴えるのはこうした大衆側だったりするのですが「薔薇の名前」のように教会の権威者が判断するのですから教会の罪の責任はやはり大きいでしょう。
異端審問官ヤーコプ・シュプレンガーとハインリヒ・クレーマーが15世紀に著した書『魔女の鉄槌』は非常に有名な書ですが、この本の存在を知ったのは昔読んだ小説でした。「ダ・ヴィンチ コード」みたいなサスペンスです。

魔女の鉄鎚 (角川文庫)

魔女の鉄鎚 (角川文庫)

もう話の内容忘れちゃいましたが、とにかく「魔女の鉄槌」という恐ろしい本があるというのをこの時知ったんですね。詳しくは以下のサイトを参照。

◆第三章 『魔女の槌』Malleus Maleficarum による、魔女=女性イメージの確立
http://www.j-coolsite.com/witch/index4.htm

上記の考察では権威者がいかに「魔女を造り挙げたのか?」ということが考察されていて面白いです。中世より何故近代で魔女狩りが過酷になったのか?という辺り、権威によって造り挙げられた罪人の構造がよくわかります。教会世界という男性社会において女性の扱いはとにかく酷い。「女性の美しさの下には汚物にまみれた肉袋があるだけだ」などという大変に失礼な、それこそセクハラだと訴えたくなるような暴言を吐く神学者までいる始末です。この時代に生きていたらひねくれ者の独身ばばぁな私などはすぐ魔女扱いでしょうね。
大衆においても魔女に関する迷信は酷く「魔女は悪魔の力を借り、農作物や家畜に被害を与える。」とか「邪眼を持っていて見られると呪われる」「魔女は吐く息で人を呪い殺す」「魔女はあらゆる病気で人を苦しめる」とか思い込みで成り立っています。こういうのは大衆側の無自覚な差別意識や無知から来る恐怖のはけ口などもひと役かっていますね。
まぁ「魔女狩り」に関して中世より寧ろ近代のほうがすごいというのは、プロテスタントカトリックという光景がヨーロッパ中あちこちで見られた狭間の中で生じたあだ花ですね。それだけ大衆が不安を抱え混乱していたわけです。(むしろ中世は異端審問における光景で大衆の立場の弱さが問題になるかも)
また中世(というより宗教改革期)的な、迷信深さから来る魔女狩りの光景ではありませんが「緋文字」におけるアメリカの清教徒のコミュニティでの不倫女性への断罪は、同等の罪であるはずの男性牧師に対する街の人々の扱いとの差異にshojisatoさんが問題とする光景があるわけです。

しかし、上記のやり取りのなかで、uumin3さんは「何かもう魔女狩りにもなりかねませんよ。「迷惑だった」という女性の側の心証だけで処分が決まるということになれば、それは個人の罪というものを決める観点からは「先祖がえり」もはなはだしいと…。」とおっしゃっています。まさしくここではかつて弱者であったはずの女性側が魔女狩りを行っていると。そういう風に評しています。ここでの権威者は「人権委員会」ですね。完全に逆転した光景が登場しています。強者であるはずの権威者である「教授」が弱者であり、弱者であるはずの女性が強者となっている。逆さまの光景が描かれています。
こういう場面では、どちらが強者か?弱者か?というものを持ち込むと一層難しくなりますね。だからこそいったんそこから離れ「メールのハートマーク」という正常人ならドン引きの行為がセクハラに相当するか?ということを検証しないといけないとは思いますが、「強者と弱者」という対立構造について敢て鑑みるなら、既存の権威構造とは別の権威構造が生まれているのは事実ではあります。これを受けて本日のエントリでuumin3さんが書かれておられます。

強いは弱い
http://d.hatena.ne.jp/uumin3/20060123

ステレオタイプではありますが、「弱者」の立場と認められた場合に、正義まで手にすると申しますかある種の立場の強さを認めなければならないというような風があるように思います。また逆に、社会的地位とか金銭的余裕があるものは、粗探しされたり争いごとでは悪人的(不利な)立場を想定されたり…。メディアが率先垂範しているようにも思います。

 これは何らかの新しい「倫理」が作られていると考えるべきなのでしょうか…

これこそまさしく「大衆の反逆」の光景ですね。
上記に挙げた「魔女の鉄槌」の成立背景にも大衆側と教会側の攻防が書かれていますが、大衆側もまた迫害者となって他所者を襲っている(ここでは逆に教会側がそれを救済している)という事例でも場面によっては迫害者が逆転していたりする。
結局、罪とは何か?が今日の我々からすると罪とならない価値が、当時は罪となっていたりするわけで今日の我々はそれらに対しナニが悪いのか?をすぐ判断出来るのですが、当時の人の基準では非常に曖昧で判りづらいものであったがために悲劇がより拡大してしまったといえます。